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灰桜

作者: 光太朗

「好きです、付き合ってください!」

 三月末、桜咲く季節。

 本当なら花見客の姿があっていいはずの、五分咲きの桜が並ぶ、山の一角。

 学校が終わると同時に駆け込んできた池田ケンゴは、入念に考えていたセリフすべてを忘れ、そう告白していた。

 着古された学ラン姿、茶の髪はどちらかというとボサボサで、少なくとも勝負仕様ではない。

 対して、思いを告げられた少女は、和服を着こなしていた。

 十代そこそこの少女が、和服を着ているというだけで、昨今では充分に珍しい。しかし、それだけではなかった。

 頭から、尖った耳が出ている。

 尻から、ふわふわの尾が飛び出している。

 大人びた瞳。透き通るほどの白い肌。

 まるで、狐と人間が融合したかのような姿で、異形であることを誇りとするかのように、悠然と立つ少女。

 ずっと、会いたいと思っていた相手だった。目にした瞬間に、理性はどこかへ飛んでしまった。

「ほう、ぬし、灰桜が見えるのか」

 少女は、興味深そうに目を細めた。ケンゴの心臓が飛び出す。一気に頬が紅潮したが、それをごまかそうとするでもなく、身を乗り出してまくしたてた。

「み、見えます! ってかやっぱり灰桜さんですか! ですよね、オレ、池田ケンゴです。ばあちゃんから話を聞いてて──あ、ばあちゃんっていうのは、池田美都子で……ああっと、旧姓は吉屋なんですけど──あ、吉屋美都子って覚えてます?」

「覚えておる。落ち着け。煩わしい」

 飛び出すツバに眉をひそめ、灰桜は着物の裾で空気を払った。たったそれだけの仕草で、ほとんど後少しまで詰めていた二人の距離が、瞬時に広がった。

「あれ、なんで離れました?」

 五メートルほど離れてしまった愛しい人に、残念な思いでケンゴが呻く。

「煩わしいからじゃ、阿呆。灰桜は、煩わしいことを好まぬ。ミツコからそう聞かなかったか」

 すぐにでもその場から立ち去りそうな様子で、忌々しげに灰桜が吐き捨てる。ケンゴは、少女の口から美都子という音が流れ出たことに驚き、そして喜んだ。幼いころから繰り返し聞いた、在りし日の美都子少女と、妖狐灰桜との友情の日々。信じていなかったわけではないが、こうして本人を前にできるなどと思ってもいなかった。もちろん、それを期待してここまで来たのだが。

 しかし、同時に、ケンゴは我に返ってしまった。何を馬鹿なことをいってしまったのだろう。衝撃的な恋をするために、ここを訪れたわけではないのだ。

「ごめんなさい、灰桜さん……実は、オレ、あなたに愛の告白をするために来たわけじゃないんです」

「ぬし、本物の阿呆じゃな。そんなもうしわけなさそうな顔をせずとも良い。灰桜はむしろ万歳じゃ」

「お心遣い、どうも」

 涙をこらえるように、頭を垂れる。それから、顔を上げた。

 灰桜が、こちらを見ている。まるで、桜の精のような姿で。茶の地面の上で、桜色を浴びながら。

 ケンゴは、つばを飲み込んだ。

 そのために来たのだ。目的は、達成すべきだった。

「ばあちゃんが、もう、長くないんです。一年前ぐらいから、裏の病院に入院してて。妖狐っていうのは、不思議な力があるんですよね? ばあちゃんを、助けてください!」

 意を決した、心からの願いだった。愛しい祖母をなくしたくない──その一心からの、ケンゴの願いだ。──とはいうものの、本当は会えるとも思っておらず、願いを叶えてくれるはずだと過度な期待をしているわけでもなかった。ただ、もしかしたら、というかすかな思い。

 灰桜は、表情を変えなかった。しばらくの間を挟み、ゆっくりと口を開く。

「灰桜が、なぜ灰桜という名なのか、知っておるか」

「え、知りませんけど」

 話題を逸らされ、ケンゴは拍子抜けする。そんなシーンではなかったはずだが。

 しかし、ケンゴは願い出ている身だった。明らかに立場が弱い。そのまま灰桜が口を開かないので、自分なりに答えを探す。

「ここの桜が、呪われた──おっと、ええっと、灰みたいな色の、桜だからですか?」

 そういって、桜を見た。

 ケンゴと灰桜を見下ろすように並ぶ、本来ならば美しいはずのそれらは、しかし、どれも色あせたような灰に近い色をしていた。気味悪がって、ここに誰も近づかず、ましてや花見になどやってこないのは、そのためだ。

 灰桜は鼻を鳴らした。馬鹿にしたように、顎を上げる。

「灰桜とは桜の名ではない、色の名じゃ。この髪の色がそれに似ているといって、遠い昔に誰かに名づけられた。それをそのまま名乗っているというだけじゃ。ここに住み着いて長いのでな、妖気にあてられ、桜も色を失ってしまったのじゃろう」

「え、じゃあ、灰桜さんが灰色だから、ここの桜も灰色に?」

「灰桜色じゃ──まあ、ここの桜は、もはや黒に近いがな」

 ぴしり、と灰桜が訂正する。

 そんな色があったのか、帰ったら調べてみよう──そんなことを思いながらも、ケンゴは疑問を拭えずにいた。なぜいま、わざわざ、そんな話をするのか。

 釈然としない思いをそのまま瞳に宿し、見ると、灰桜は苦々しく笑っていた。もしかしたら、それだけでわかるだろうと思っていたのかもしれない。ほとんど呆れたように、ゆっくりと口を開く。

「ぬし、灰桜を妖弧といったな。そのとおり、灰桜は妖弧、誰にも縛られぬ、野狐じゃ。白狐か何かと勘違いしてはおらぬか。なまじ色が白に近いからの。灰桜は、きゃつらのように、みだりに善行をせぬ。人間の世に干渉などしとうない」

「…………ええと」

 灰桜の告げた言葉の意味を考えようと、ケンゴは脳みそをフル活用する。午前に高校で春休みの補習をしてきたばかりだ。まだ、脳は動くはずだ。

 どうにかして、結論を導き出した。

「つまり、いろいろしてくれるのと、そうじゃないのとがいるってことですか? で、灰桜さんは、してくれない派?」

「そういうことじゃ」

 できの悪い生徒に対するような目で、ケンゴを見る。それから、あらゆる感情を排除した顔で、薄く笑んだ。

「ミツコは寿命じゃろう。さだめを歪めてどうするつもりじゃ。──簡単にいうが、誰かの命を救うことで、誰かの命が消えるとは思わなんだか」



 それ以上、ケンゴにはいうべき言葉がなかった。

 灰桜はそのまま姿を消し、ケンゴもすごすごと帰路についた。山を下る途中、薄く色づく美しい桜の下で、まだ明るいというのに酒を飲んで騒いでいる大人たちの隣を過ぎる。山の奥の灰桜は本当に気味が悪い──額にネクタイを巻いて、笑いながらそんなことをいう大人を、馬鹿にするような気持ちがちらりと湧いたが、知識を披露するような気分でもなかった。

 知らず、病院の扉を開けていた。病室では、祖母が穏やかに横たわっていた。

「なあ、ばあちゃん。灰桜さんに頼んだけど、ダメだったよ」

 寝ているだろうと思いながらも、言葉をこぼす。

 しかし、美都子は目を開けた。愛おしそうに、しわくちゃの手を伸ばし、ケンゴの腕に触れた。

「本当に行くなんてねえ。会えたの?」

「会えたよ。すげえ綺麗な子だった」

「そう。それで、あしらわれたんでしょう。私のこれは寿命なの、どうすることもできないって、灰桜がいったのよ」

 意味がわからず、ケンゴは数度まばたきをした。

「……灰桜が、いった?」

 美都子が笑う。いわなかったのね、と旧友を懐かしむように。

「昨夜ね、来てくれたのよ。どうにかしたいって、泣いてくれたわ。私のこと、いつも、見ていてくれたのねえ」

 ケンゴは、視界がみるみる広がっていくのを感じた。

 灰桜が、自ら、ここへ来た。友人を救おうと。その孫が、願いに行くまでもなく。

 儚い憧れにすぎなかった「灰桜」が、今日実際に会えたこと、そして祖母の話をきいたことで、どんどん人間味を帯びてきていた。今日会えた奇跡だけで、終わるつもりだったけれど。

「ばあちゃん、オレさ、恋しちゃったかも」

「あら、茨の道ねえ」

 細くなくなりそうな喉を鳴らし、美智子はころころと笑った。



   *



 次の日もその次の日も、ケンゴは灰桜の元を訪れた。朝、高校へ行く前の少しと、補習を終えてから日が暮れるまでの、数時間。いままで会えなかったことが嘘のように、灰桜は必ず灰色の桜の下にいた。彼女はにこりともしなかったが、それでもケンゴと共に時間を過ごした。

「ぬしはおかしなやつじゃのう」

 五分咲きだった桜が八分咲きになったころ、灰桜は不意にそうつぶやいた。

 ぬし、と呼びかけられることが、ケンゴはたまらなく好きだった。子犬のように、ありもしない尻尾を振って、なになに、と灰桜の顔をのぞき込む。

「とうとう、オレに惚れましたか!」

 瞳を輝かせ、冗談というわけでもなく、ケンゴがいう。灰桜は片眉を上げた。

「ほう、ぬし、おかしいと思われることが惚れられることだと認識しておるか」

「興味を持ってくれたってことですよね!」

 やんわりと否定されたような気もしたが、ケンゴはくじけない。とうとう、灰桜は、吹き出すように笑った。

「どこまで阿呆なのじゃ! ぬしはめでたいのう!」

 それは決して褒め言葉ではなかったが、ケンゴにとってはほとんど愛の告白と同じぐらいの衝撃だった。なんて楽しそうに笑うのだろう。鼓動が早くなっていく。わけもなく叫びだしたい衝動に駆られる。そんな緊張に翻弄され、そして楽しみながら、ケンゴは愛しい笑顔を見つめた。

「灰桜さんは、本当に、かわいいです」

 そんなことをいうつもりではなかったのに、ずいぶんストレートな言葉が口から流れ出た。

 灰桜が、きょとんとする。どちらかというと、訝しげに。

 ケンゴは慌てた。急くままに、言葉を探す。

「えっと……そう、そうだ、灰桜さんがそうやって笑っていれば、もっと花見の客だって、来るんじゃないですか。せっかくの桜なのに、黒ずんでいたらもったいないですよ」

 沈黙をごまかすために続けた言葉の内容に、ケンゴ自身が驚いた。いってしまった瞬間に、ひやりと、空気が冷えるのを感じる。

 心のどこかで、そういうふうに思っていたのは事実だ。彼女とここの桜を独り占めしたい、けれど見せびらかしたい、知ってもらいたい──そういった、複雑な思い。だがそれは、いってはいけないことのような気がしていた。

 地雷を踏んだのだと、ケンゴは直感した。

 灰桜の表情が、一瞬にして冷めてしまう。

「ここの桜の色は、灰桜の色じゃ」

 凍てつくような声で、灰桜はつぶやいた。

「灰桜の、心の色じゃ。灰桜は人間を好まぬ。やつらは、懸命に生きている花を肴に騒ぎ立て、山を荒らし、花が美しさを損なえば見向きもしない。そうして花よりもなお儚く、勝手に死んでいく。──灰桜は、人間を、好まぬ」

 まるで忘れてしまっていた事実をいいきかせるかのように、二度くり返した。灰桜色の尾を揺らし、消え入りそうな瞳で、ケンゴを一瞥する。

 そうして、身を翻した。うしろ姿がこちらを向くはずのかすかな動作だったが、それを最後に、灰桜は姿を消してしまった。

「ち……──」

 違う、といおうとした。しかし、何が違うというのか。灰桜を傷つけてしまったのは、事実だ。

 ケンゴは、その場に立ちつくした。

 しかし日が暮れても、その次の日になっても、とうとう灰桜は姿を現さなかった。



 灰桜に会えないままに、山の桜は満開になった。

 寒さと暖かさをくり返していた春の入り口を通りすぎたかのように、穏やかな日差しの午後。補習を終えたケンゴは、いつものように、灰色の桜を訪れた。

 あの日まで、桜の下で灰桜が待っていてくれたことが嘘のように、そこには誰もいない。ひとの気配というものがまったくなく、生命の香りすらしなかった。まるで、桜も、地面も、風すらも、人間に憤っているかのように。

「くそう」

 ひどく情けない気持ちで、声をもらす。

 会いたかった。会って、あやまりたかった。ちゃんと向かい合って、淡い灰桜色の瞳を見て。自分は、彼女を、傷つけてしまったのだから。

 一際大きな木の根本に、座り込む。黒味を帯びて風に揺れる、満開の桜を見上げた。

 気味が悪いなどと、もう思わなかった。

 この姿で、それだけで、これほどまでに美しいのに。

「これ、これだよ、呪いの灰桜」

「きゃ、ほんとだ、気持ち悪いー!」

 複数の声が落ちてきた。同時に、人の気配。

 ケンゴが顔を上げると、学生風の若者たちが数人、こちらに向かってきていた。

 酒を飲んでいるのだろうか、男も女も、一様に赤い顔をしている。赤や黄の派手なシャツを着て、頭も同じような色に染まっている。酒瓶を片手にゆらゆらと近づいてきた。

「何コレ、黒? 灰色? これって、桜じゃないんじゃないの」

「いや、桜だよ。俺、地元だもん。ここらじゃ有名なんだよ、灰桜」

「げえ、マジで怖い。タタられるう」

 一人がそういうと、どっと一気に笑い出す。ひどく不愉快な気分で、ケンゴは立ち上がった。

「帰れ!」

 考えるより早く、怒鳴っていた。ちょうど、木の陰になっていて見えなかったのだろう、突然現れる形になったケンゴの姿に、彼らは悲鳴をあげた。

「うお、びっくりさせんなよ! 高校生かよ。お化けかと思ったろ」

 よほど驚いたのだろう、目を白黒させて、怒鳴り返してくる。その様子が、ここの桜を気味悪がっているのだと証明しているようで、ケンゴはいっそう嫌な気分になった。

「おまえらみたいなのがいるから、灰桜さんが人間嫌いになるんだろ! 興味本位ならさっさと帰れ! 迷惑だ!」

 いいながら、それは違う、それをいうなら自分だって同じだ、と思いつつも、まるで責任をなすりつけるかのように、ケンゴの口は止まらなかった。明らかにいいがかりとわかる暴言が、どんどん飛び出していく。

「昼真っから酒飲んでさ、麓の桜だって、きっとやめてくれって思ってる! ゴミとか放り出して帰るんだろ、どうせ! 勉強しろよ大学生! おまえらみたいなのが、世の中ぜんぶダメにするんだ!」

 いいきってしまってから、不穏な空気がケンゴを取り巻いていることに気づいた。

 さすがに、いいすぎてしまった──後悔したところで、もう遅い。

「そんなにケンカしたいのかよ、ボク。なんだよ、こんなところに一人でさ。この呪いの桜が大事か?」

「だ、大事だ」

 先ほどまでの覇気はなかった。彼らは顔を見合わせるようにして、肩を揺らして笑う。

「ね、切っちゃえば」

「やっちゃえ、やっちゃえ」

 女たちがはやし立てる。ケンゴには、何をいっているのかわからない。

 しかし、一際体格のいい男が手にしているものを見て、理解した。

 あろうことか、男はノコギリを手に、にやにやと笑っていた。木を丸ごと切り倒すことは不可能だろうが、枝を切るには充分だ。最初から、そのためにやって来たのだろう。

「ど、どうするつもりだよ!」

 そんなことはわかりきっていた。けれど、震えた声がケンゴの口から飛び出す。凄味などかけらもない、情けない声。

「切るんだよ。一度めちゃめちゃにしてさ、そしたら、ここの桜も綺麗になるかもだろ? それは来年のお楽しみー、だけどな」

「下の方はさあ、もういっぱいなんだよね。ここで花見できれば、穴場になるかもだし」

「救世主だよ、救世主」

 ただ楽しそうに、彼らが笑う。ケンゴは、頭の中が真っ白になっていくのを感じた。

 それは衝撃なのか、怒りなのか、それともどちらでもない何かなのか。ケンゴにはわからなかった。ただ、脳内が一気に冷めたかと思うと、次の瞬間には恐ろしいほどの熱が吹き出してきた。

「やめろ!」

 出したこともないほどの大きな声で、叫んでいた。唇を真横に引いて、地を蹴る。ノコギリを手にした男に、身体ごと思い切りぶつかった。

「うお!」

 男が倒れる。その上に覆い被さって、ケンゴはノコギリを奪い取った。

「やめろ! 帰れ! いますぐ帰れ!」

「なんだこいつ! おまえこそ帰れ!」

 激昂した男が、ノコギリを取り返そうと手を伸ばす。それを避けようと身体を捻った瞬間に、刃先が何かを叩いた。

「きゃっ」

 悲鳴で、女に当たってしまったのだと気づく。しまった、とそちらを見る分、力が抜ける。

「クソガキ、いいかげんにしろよ!」

 他の男が、酒瓶を振り上げるのが見えた。複数の女の悲鳴と、同時に、衝撃。

 視界が揺れ、ちかちかと光が見える。殴られたのだ、と悟るころには、景色が色を失っていく。

「バカ、そんなもんで殴るかよ!」

「やべえ」

 動揺した空気も、ほとんどケンゴまで届かない。逃げるようにして、複数の足音が走り去っていく。

 守ったのだ──かすかな満足感に、ケンゴは瞳を閉じた。そうして、意識を手放した。



 瞳を開けると、狐の耳があった。

 ぼんやりとした視界を、徐々に下ろしていく。灰桜色の長い髪、白い肌。感情のない瞳、鼻、唇。

 灰桜が、立っていた。立ちすくむようにして、ケンゴを見下ろしていた。

 ケンゴは笑った。

 やっと、会えた。

「ごめん」

 手遅れにならないよう、告げたかった言葉を、口にした。その瞬間、灰桜の瞳が、くしゃりと歪むのが見えた。

「灰桜さんが綺麗なように、ここの桜だって綺麗だ。なのに、傷つけるようなことをいって、本当に、ごめん」

 かすれた声で、つぶやく。頭部にはまだ、鈍い痛み。もしかしたら本当に、これが最後なのかもしれない。そう思ったら、手を伸ばしていた。

「抱きしめてもいいですか」

「阿呆」

 震える声が返ってくる。そこにはいつもの強さがなく、ケンゴは苦笑した。どうして泣いているの、と口にしたつもりで声にならない。せっかくまた会えたのに、もう何も見えなくなりそうだった。鈍痛が、次第に大きくなってくる。意識がもうろうとする。

「人間は勝手じゃ。枝が折れたところで、灰桜には何の関係もない。灰桜は色の名じゃ、ただここにおるだけじゃ。野狐じゃと、いっておろう」

 はらはらと、灰桜の目から涙がこぼれる。その涙を拭ってやりたいが、ケンゴが手を伸ばしたところで届かないことはわかっていた。第一、もう、手を動かせる気がしなかった。

「人間は、勝手じゃ」

 もう一度、くり返す。膝を折り、ケンゴの頬にそっと触れた。

「いたずらに、灰桜の心に触れる。ミツコも、ぬしも、そうして消えてしまうのじゃろう。あっというまに、灰桜を、置いていくのじゃろう」

 灰桜は、遠くに行ってしまう何かをつなぎ止めようとするかのように、力強く、ケンゴを抱いた。その身体が、ぼんやりと光り出す。白く淡い色が、抱きしめる手から、濡れた頬から、にじみ出ていく。

 応えるかのように、灰色の花が、一斉に揺れた。光すべてを吸い込んで、あでやかな桜色に染まっていく。

「灰桜を、ひとりにしないで」

 ケンゴの視界が、淡い桜色の光に埋め尽くされた。

 誰かの命を救うことで、誰かの命が消えるとは思わなんだか──最初に告げられた言葉が、ケンゴの脳裏に蘇る。やめてくれと願うが、声にならない。



   *



 桜は、散ってしまった。

 長い間地面を彩っていた絨毯も、いまではもう風に流され、木々はすっかり緑を取り戻し、まるで最初からその姿であったかのように、悠然と立ち並ぶ。

 やがて、夏がくる。

 汗ばむ額を袖で拭い、ケンゴは、確かに美しく咲き誇ったはずの桜を、見上げた。

 そうして、あの日のことを思い出していた。

 あの日、目を覚ましてみれば、嘘のように痛みが引いていた。まるであたりまえのように、愛しい人の姿はなく、桜は灰桜色のままで咲いていた。

 すべてが幻だったのだろうかと、思う。しかし、そんな思いは、ほんの刹那のことだった。

 ケンゴの思い人は、確かに、ここにいたのだ。

 幻にするのは、人の勝手というものだ。

「ねえ、灰桜さん」

 呼びかける。

 灰色の桜が散っても、やはりここには誰も訪れない。

 人間から忘れ去られてしまったかのような、山の奥。

 ケンゴの傷を癒したのち、灰桜は姿を消した。それでも、ケンゴは諦めなかった。毎日桜を訪れ、呼びかける。きっと聞こえているはずだと、愛しい人の存在を信じて。

 諦めたように彼女が姿を現すまでに、それほどの時間はかからなかった。

「また来たのか。ぬし、暇じゃのう」


 そうして今日も、灰桜色の美しい少女が、木の下で微笑みを浮かべる。










 


読んでいただき、ありがとうございました。


イラストの美しさ、そこからにじみ出るストーリー性に、いつものようなSSではおさまりきらず、長めになってしまいました。


少しでも良いものが書けるよう、精進いたします。

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― 新着の感想 ―
[一言] いいはなしでした。これからもがんばってください ほんとうにいいはなしでした!(^^)/♪
[一言] 光太朗さま、こんばんは!(^o^)/ 気づいていましたか? 今回のテーマ、イラストの女の子と男の子でラブ(らしきもの)を書いたの、あなただけです(笑)! ちなみに私の作品は、仮面魔神になり…
[一言]  こんにちは!  遅くなりましたが、小説風景12選参加作品、拝読させていただきました。  健気なケンゴくんがとても可愛かったです>< 少しずつ心を開いていく灰桜さんも素敵でした。どうなっち…
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