後編
ベルは、あれからも滅多には喋りません。ただ、数年に一度、忘れたころに、
「はるかの旦那さんに整備をしてもらいたいなあ」
と、言うのです。そしてそれは、決まって、家族のだれもいない間でした。
だから、はるか以外、ベルが喋ることを知る者は、誰もいません。
もしかすると、持ち主であるはるか以外に、ベルの声は聞こえないのかもしれません。
はるかは、夫との間に、三人の子を作りました。
寝坊をしない、という特技は、はるかにとってはとてつもない助けになりました。なにせ、主婦のはるかは、毎朝早起きして、家族五人分の家事を行わなければならないのです。
しかも、朝だけではありません。
たとえば、家族たちを送り出して、ほっと一息つくお昼寝の時間。
たとえば、買い物に行く時間。夫を迎えに出る時間。
たとえば、……芋が煮える時間。
そうした、こまごまとした時間まで、いつのまにかはるかは、無意識のうちに分かるようになっておりました。
時間がくれば自然と眠りから目が覚めたり、夫を迎えに出たり、あるいは、火にかけた鍋をおろしたりできるようになっていたのです。
生活の基本的なリズムから、こまごまとしたことまで。彼女の生活がそんなふうにうまくいくのは、全部ベルのおかげなのだろうと、はるかは思っていました。
どれだけ小さなことでも、積もり積もれば、大きな助けになります。だから、はるかは毎日ベルに感謝を伝えて、ときどき布で磨いてやるのでした。
決まった時間にゴミ出しをし、決まった時間に子どもたちを学校へやり、決まった時間に家の前を掃き掃除するはるかの姿を見て、近所の人たちは、
「さすがは時計屋のお嫁さんだ」
などと、感心するように言ったものでありました。
まあ。それでも。
どれだけ規則正しい生活を送っても、生活は日々、変わっていきます。
毎日同じように時を刻む時計と違って、人間は育っていきます。
はるかが生んだ子供たちは、やがて、学校を卒業し、ひとり、またひとりと家を出ていきました。
そして、最後のひとり、末の娘も、お見合いをして、とうとう嫁いでゆきました。
結婚式で、白いウェディングドレスを着た娘を見て、はるかは、
(ここまで立派な娘に育ったのも、旦那さまと、ベルちゃんのおかげだわね)
と、感慨にふけりながら、腕に巻いたベルを撫でるのでありました。
◎
子どもたちが巣立っても、毎日の生活というものは、それほど大きく変わるわけではありません。
はるかはいつもと変わらず、朝決まった時間に起き、決まった時間に朝食を作り、決まった時間に玄関の掃き掃除をします。
そうしているうちに、やがて、長男のところから、初孫ができたという知らせが届きました。
男の子でした。無事に生まれたという知らせが届き、はるかはよろこびました。
次の年と、その次の次の年には、次男や、長女のところにも、続けて子供ができました。
初孫が中学校に入ったころ、旦那は店をたたみました。
このころ、ふたりは年金をもらえる年になっていました。
童顔だった旦那も、いまでは白い髪に、しわだらけの顔です。
ある夏のこと、はるかが体を壊して入院したのをきっかけに、次男夫婦たちが家に同居するようになりました。
息子たちの家族に囲まれて、またせわしない毎日が戻ってきました。はるかは体力の衰えを感じていましたが、それでも、
「毎日、楽しいわねえ」
と言って、朝は決まった時間に起き、ご飯を作り、掃き掃除をするのでした。
このころから、少しずつ、ベルの調子は悪くなっていきました。
一日に、一分。二分。気が付くと、時間がずれているのです。
そしてそれは、日に日に、大きくなっていくようでした。
でももう、そのころには、はるかはベルの時間のずれを、ほとんど気にしないようになっていました。
◎
夢の中のことでした。
毎日決まって見る、あの夢です。ベルがはるかに話しかける夢です。
「はるか」
と、いつものようにベルが、はるかに話しかけます。
しかし、このときのベルの声は、どこか変でした。
ベルの幼い声に、元気がありません。どこか辛そうで、寂しそうで、泣き出しそうな喋り方をしています。
「ああ、なるほど。そういうことなのね」
と、はるかは頷きました。
「ベル、あなた、お別れを言いに来てくれたのね」
「そうだよ」
ベルは声で頷きました。
「もう、あんたを起こしてやれないんだ。あんたが目を覚ますことはないんだ。それが悲しいよ、はるか」
「わたしも、明日からはベルのダイヤルを合わせてあげることができないのね。そう思うと、とっても残念よ、ベルちゃん」
と、はるかも返しました。
「おいら……おいら、最近じゃあ、時間がくるってばっかりだったもんな。ごめんな、時計なのに、ちゃんとしてなくてさ」
「そんなことないわよ」
と、はるかは言いました。
「あなたは立派な時計よ、ベル。わたし、あなたにどれくらい感謝していいのか、言い足りないくらいなんだから」
そして、
「ありがとう、ベル。最後に、あなたとお話ができて、よかったわ」
そう言って、にっこりと笑いました。
それが、はるかの見た、最後の夢になりました。
◎
「見ろよ、父さん、これ」
と、若い男が箪笥の引き出しから、何かを探し出しました。
男は、はるかの初孫でした。もうすっかり大人になって、結婚指輪もしています。
「なんだ、そりゃ」
と、初老の男性が身をのりだします。すっかり髪の白くなった、はるかの長男でした。
「ほら、時計だよ、時計。ばーちゃんの箪笥から見つけたんだ」
「ああ。これは、おまえのばーちゃんの時計だなあ。――ほら、文字盤に、ベルフィーヌって書いてあるだろ。見覚えがあるよ」
懐かしそうに、男性は目を細めます。
「あ、でも、動いてねーよこれ。電池取り換えねーと」
「あほう。それは、手巻きだ。手巻き。古い時計だよ」
貸せ、と男性は時計を取り上げました。
「親父の工具、まだあったかな。……おっ、あったあった。おまえ、細かい部品があるから、そこから近づくんじゃねえぞ。どれどれ。ここをこうして――」
と、慣れた様子で時計の裏蓋をあけて、
「ああ、やっぱり、あの野郎、同居しておきながらオーバーホールもしてねえのか! これ、親父が死んでから、ほったらかしだろ!」
と、誰かに向かってそう文句を言います。
そして、ちょこちょこと工具を動かし、目に見えない機械の部品を、あっというまにばらばらに分解してしまいました。
「へえ。父さん、そんなこともできたんだ」
「見よう見まねだけどな。
ほら、これが時計で一番大事な部品だ。繊細で、ちょっとでも衝撃を与えたら、すぐに壊れちまう。
こいつが壊れたら、時計ってやつは動かないんだ。でも、この分なら大丈夫そうだな。
こっちも見てみろ。機械も、長年掃除もしてないくせに、とてもきれいだ。たぶん、とても大事に扱ってたんだろうなあ」
男性は部品を分解しながら、楽しそうに話しつづけます。
「それって、動くってこと?」
「ああ。どこも壊れてねえし、油を差してやればいいのさ――」
男性の手は止まりません。分解された機械が、またたく間に、また組み上げられていきます。
あっという間に元通りのすがたに時計を組み立て終わると、男性は自慢げに、わくわくした顔でぜんまいを巻き上げました。
二人の見守る前で、
「チチチチチチ」
と時計が小さな音を立てて、また、時間を刻み始めました。