中編
次の日から、はるかは職場にベルを付けていくようになりました。
朝起きると、彼女はベルに「おはよう」と話しかけます。
もちろん、時計は答えません。はるかはそれを確認すると、満足げな顔で、いつものようにねじを巻きます。
そして当たり前のような顔で右手首にベルを巻いて、そのまま職場まで行くと、ここでもまた、当たり前のような顔で過ごすのです。
そうして毎日仕事をして帰ってくると、朝と同じように時計に向かって、
「今日もありがとね」
「おつかれさま」
などと言い、腕から外して、箪笥の上の時計箱に、丁寧に仕舞い込むのでした。
ところで、不思議なことに、はるかはベルを買ってから、寝坊というものをすることがなくなりました。
夏も冬も、雨の日も晴れの日も、毎朝、決まった時間になると、目を覚ますのです。
「ふーむ。これは、ベルちゃんの仕業ではないかしら?」
と、しばらくして、はるかはそう思うようになりました。
じっさい、おぼろげに、眠っているところをベルに起こされた――ような――かすかに、そんな記憶があります。
現実の話ではありません。眠っている間の記憶です。
彼女が見ている夢の中で、あの子供っぽい声が「そろそろ起きろよ」と話しかけてきたような気がするのです。
夢の中での話ですから、起きる頃には散り散りになって、消えてしまっています。それでも、何度も同じ夢を見ていると、断片的に、頭の片隅に残っているのです。
もちろん、それは、ただの夢です。しかし、喋る時計なら、そのくらいできても不思議はない――はるかには、そんな確信がありました。
(このことは、ベルちゃんに感謝をしないといけないな)
そう、改めて、はるかは心に誓うのでした。
◎
あの台湾旅行から、二年が過ぎた、ある日のことです。
このころには、自分がしているのが喋る時計であることも、はるかはほとんど意識しなくなっておりました。
というよりも――おぼろな記憶ながら――毎朝、ベルとは夢で話をしているのです。ですから自然と「この時計と話ができるのは夢の中だけなのだろう」と、そんな風に考えるようになっていました。
このときもはるかは、いつものように自宅から帰って、日課になっている挨拶をして、腕から時計を外そうとしていました。
すると、そんなはるかに向かって、ベルが話しかけてきたのです。じつに、二年ぶりのことでした。
「ねえ、はるか」
記憶に残る、あの子供っぽい声でした。
「おいらさ、そろそろ具合が悪くなるころなんだよ」
「まあ、そうなの?」
ひさしぶりのことであるのに、はるかはおどろいたりはしませんでした。夢の中で、ベルの声を聞きなれていたからかもしれません。
彼と話せることが、少しだけ嬉しくはありました。しかし、彼が話す内容は、あまり喜べる事情ではないようです。
「具合が悪いって、どういうことかしら。わたしに、できることはない?」
「具合が悪いんじゃなくて、悪くなりそう、なんだよ。おいらの油が、切れかけてるんだ。それに、きれいに掃除もしてほしくて」
「まあ。分かったわ。油ね。でも、あなたはとてもきれいよ? わたしがいつも、布で掃除をしているわ」
「違う違う。外側じゃなくて、中の機械のことなんだ。できれば、時計屋においらを持って行ってくれないかなあ」
ふだん口をきかないベルに、じきじきにこう言われては、是非もありません。
はるかはベルを箱に入れて、近所の時計屋へ持っていくことにしました。
が、時計屋に着き、店内に入ろうとしたとき、またしても箱の中から、ベルが声を上げたのです。
「ちょっと待って、はるか!」
――と。
ベルの声におどろいて、思わずはるかは、店の前で立ち止まりました。
「急に、どうしたの? ベルちゃん」
はるかは人に聞かれないように、道の隅へ寄って、こっそりベルに話しかけます。
「はるか。ごめん。でも、あの店はだめなんだ。
あの店の前に並んでいる時計が見えるかい? みんな、ひどく悲しんでいる。
あのお店の店主は、腕が悪いか、そうじゃなきゃひどく悪辣なやつだよ。どの時計も、時間のくるいをなおすために、部品を削って、重さを変えられているんだ。
もちろん、少しであれば問題ないさ。でも、あの店主がやっているのは、部品の片方を削って、削りすぎたからもう片方も削って……
そういうことを繰り返されて、あそこの時計たちは、みんな時計としての寿命を、減らされてしまっているんだ」
はるかは、ベルが話す内容に、とてもびっくりしていました。時計というものは、時計屋に持っていけば、直してもらえる――そう安直に考えていたからです。
時計屋の店主がそんなことをしているなんて、考えたこともなかったのです。そしてもちろん、はるかも、ベルの寿命を減らされるなんてことは、まっぴらごめんでした。
「ごめんなさいね、ベルちゃん。わたし、そんなことには気が付かなかったから。もっと別の、ちゃんとしたお店を探すことにするわ」
「うん、よろしくたのむよ、はるか」
そうして、はるかたちはいくつかの店を回りました。
しかし、どれもベルのしっくりくる店ではないようです。4軒、5軒と店をあとにし、最後に、隣町の商店街で見つけた、小さな店の前で、はるかは足を止めました。
「うん、ここがいいや。はるか。ここにおいらを預けておくれ」
「でも……本当にここでいいの? ベルちゃん。わたしに遠慮していない? ここは、小さいし、店構えもあんまり……」
「大丈夫さ」
と、戸惑うはるかにベルは言います。
「ここの店は、たしかに小さいけれど、清潔な油のにおいと、よくみがかれた歯車が、精密に並んで動く声が聞こえる。ここにしよう、はるか」
そう言われては、素人のはるかには、否ということはできません。
はるかはその、小さな店に入りました。
店内は外見から分かるとおり、さほど広くはありません。狭い棚に並べられたいくつもの時計と、いくつかの壁掛け時計。
そしてカウンターの向こうで、まだ若い男の店員が、熱心に手元の時計を見ておりました。
はるかが近寄ると、店員はそこでようやく客に気づき、顔をあげました。年齢は、はるかよりも、5つか6つほど上でしょうか。童顔で、目が悪いのか、眼鏡をかけています。
「あのう」と、おずおずとはるかは切り出しました。「時計をみていただきたいのですが」
「ああ、はい。修理ですね?」
と、どこかマイペースに店員は言いました。
「しばらく預かりますが、いいですか?」
「はい。あの、これがそのベルちゃん……」
ここで、はるかは口を滑らせてしまいました。どうしてだか、時計の入った箱を渡すとき、ベルの名前を伝えてしまったのです。
ベル、と言って、ほかの人に通じるはずがありません。はるかは恥ずかしさのあまり、真っ赤になって、言いなおします。
「失礼しました、ええと、これがその時計なのです……」
ふうん? と、目の前で急に恥ずかしそうにする客を前にして、気負った様子もなく、店員は箱を空けました。
そして彼は、中身をしげしげと見て、赤くなったはるかに目をやり、もう一度時計に目をやり、
「……ああ、時計の名前でしたか! なるほど、だからベルちゃんなんですね!」
と、はるかに向けて、図太く言い放ちました。
◎
ベルの見立てに間違いはなかったようで、油を差され、満足げな様子で、ベルは整備から戻ってきました。
そしてこの翌年、はるかと、この男の店員は、結納することになります。
――あのときのおとうさんの顔、ひっぱたいてやりたかったわ。
息子や娘に、お互いの出会いの話をするとき、はるかはよく、そんな風に言うのでした。