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前編

 はるかが、その小さな時計屋を見つけたのは、台湾旅行の途中、ふと立ち寄った商店街の一角でのことでした。


 どうしてその店が気になったのか、実のところはるか自身も、よく覚えていません。きっと、ただの気まぐれだったのでしょう。


 開け放しの戸をくぐって中に入ると、『いらっしゃいませ』と店主らしき中年の男性が、台湾語で朗らかにはるかを出迎えました。


 他に客の姿はありません。たくさんの掛け時計が、壁に飾られています。入り口のそばには、木でできた棚の上に、ガラスのケースに入れられた腕時計が、いくつも並べられています。


 ジュベニヤ、ショーメ、ロンヂン、グルエン、ポール・ボーレ……


 高額の値札がついた、名前だけは聞いたことのある、時計たち。


 ほとんどが男性用で、女性用は、ごくわずかのようでした。


 そのわずかな女性用の中に、見知ったロゴを見つけて、おもわずはるかは手を伸ばしました。


 アルファベット五文字でできた、有名な日本のメーカーのロゴでした。銀色のケースに、小さな白い、まるい文字盤。


 シンプルだけど、かわいらしい時計です。


『それは、日本製の高級時計で、性能がよくて貴女にたいへんおすすめです』


 というようなことを、男性がはるかに言いました。


 台湾まで来て、日本の時計を買うのも、変な話かもしれません。しかし、はるかはそのときにはもう、手に取った時計に惹かれてしまっていました。


 名前の響きも、舶来風で、洒落ています。口の中で転がすと、昔から知っていたような気さえするのです。


 縁は異なもの、という言葉もあります。異国旅行の、ふわふわとした気分も、はるかの財布のひもをゆるめる手助けをしました。


 結局、はるかは値段を幾らかまけてもらったうえで、その一目ぼれした時計を自分のものにしたのでした。




    ◎




 翌日。日本に帰ってくると、はるかはさっそく、その時計を使ってみることにしました。


 この時計は、自動巻きではありません。はるかが手で竜頭リュウズをカリカリと巻くと、やがて時計の機械は小さな「チチチチチチ」という音を立てて動き出し、分針が、ちくり、と針をすすめました。


 時計が遅れてもいいように……と、三分、いや五分だけ、家の時計よりも針を早めておきます。


 ベルトを巻いてみると、とてもいい具合に、はるかの腕にしっくりと馴染みました。


 と、そのときです。


「失礼なひとだね! 五分、五分も、おいらを早めておくだなんてさ!」


 ふいに、手元からそんな声が聞こえました。


 はるかはおどろいて、きょろきょろとあたりを見渡します。


「どこを見てるのさ! ここだよ! あんたが今、腕に巻いただろう!」


 と、また声が聞こえました。子どものような声でした。


「まさか、あなたなの。いましゃべったのは」


 はるかは、おどろいたように、その声に向けて返事をしました。


 はるかが返事をした相手は、いま、はるかが腕に巻いている、腕時計なのでした。


「そうさ。おいらは、時計の精。あんたが次の、おいらの持ち主だね?」


 時計はそう、堂々と喋りました。どこか偉そうに。どこか楽しそうに。


 はるかはふしぎと、恐怖は感じませんでした。気味悪く思うこともありませんでした。


 もしかすると、時計から聞こえる声が、小さな子供のような声だったから、なのかもしれません。

 

 はるかはなるべく丁寧に、時計の質問に答えました。


「そうですよ。わたしがあなたを買いました。だから、わたしがあなたの持ち主です。なにか、不都合がありましたか?」


 時計はそれを聞いて、不満そうに言いました。


「べつに、不都合ってわけじゃないけどさ。でも、おいら、時間を五分も間違えたりしないよ。あんたには、正確な時間を教えてやるよ。だから、なるべく時間は合わせておいておくれよな」


 はるかはそれを聞いて、あわてて、時計の時間をぴったり丁度に合わせました。


 どうやら、この時計には、時計なりのプライドがあったようです。時間を進められたことに我慢ができず、不満に思って、はるかに直接文句を言ってきたようでした。


「うん。そのくらいなら、文句はないさ」と、時計は言いました。


「あとは、毎日針を巻いてくれれば、おいらも文句を言ったりしやしないさ。これっきり口をつぐんで、カチコチ、ただ正確に時間を進めるだけさ」


「まあ」


 と、はるかはおどろいたように言いました。


「あなたは、これっきり口をつぐんでしまうの?」


「えっ……。そうさ。だって、喋る時計だなんて、おかしいだろう?」


「おかしくなんてないわ」


 と、はるかは首を横に振りました。


「たまにでも、あなたとお話ができたら、わたしはとっても嬉しいわよ」


「ええ……。わかったよ。もう。変な人だなあ」


 時計は、はるかの申し出に、まんざらでもない様子をみせました。


 そこで、はるかは大事なことに気づきました。時計、時計と呼ぶのでは、それこそ声の主に失礼なのではないかと思ったのです。


「ね。あなたのこと、なんとお呼びすればいいのかしら」


 はるかは時計に尋ねました。


「おいらかい? あんたの好きに呼べばいいさ。おいらに名前なんてないんだから」


「まあ……。なら、そうね、この時計の名前をとって、こう呼ぶわ。ベルちゃん。どう? 気に入らないかしら?」


「ベル……ベル、か。うん、いいね。とってもいい名前だよ! おいら、それがいい!」


 時計、あらため、ベルは嬉しそうに、そう声を上げました。


「よかったわ。わたしの名前は、はるか、よ。これからよろしくね、ベルちゃん」


「はるか。はるかだね。わかったよ。でも、おいらの本分は時計なんだからな。あんまり滅多なことで、はるかに話しかけたりはしないよ。……じゃあなっ」


 そう、最後に言って、ベルは黙り込みました。


 はるかが何かを話しかけても、もう、答えはありません。まるで、さっきまでのことが、白昼夢だったかのように、時計は沈黙しています。


 耳を近づけても、かすかに「チチチチチチ」と歯車が回る音が聞こえるばかりです。


「ふふふ」


 と、はるかは笑いました。そして、


「これから、よろしくね、ベルちゃん」


 と言って、いとおしそうに、手首の時計を指で撫でました。

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