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鬼に手を引かれ、夜の山を登る

作者: 中村わこ

 月のない夜に目を覚ますと、暗く狭い家の隅で、あの子は高く売れると親が話すのを聞いた。

 逃げるという選択肢もあった。しかし不作が続く昨今、家を出れば飢えて野たれ死ぬのは明らかだった。


 私を売った金で両親とたくさんの兄弟が飢えの恐怖から一時でも逃れることができるなら、それが私の生まれた意味かもしれない。私はおとなしく売られる道を選んだ。

 だが、人買いに連れられ、殴られた犬のように従順で静かな少女達と一所に集められると、どうしようもない焦燥に駆られた。

 

 売られることが生まれた意味だと殊勝なことを考えていたが、それは思うままに生きることを諦めた理由に過ぎないのではないか。私という唯一の命を簡単に他人の手へ委ねて、自分を許せるのか。

 そんなことを考えていたら、気が付けば駆け出していた。

 

 すぐに人買いが走り寄ってきて、思い切り足を払われた。

 骨が地面を打つ鈍い音。やや遅れてきた衝撃は全身を駆け巡り、声も出ない。

 痛みの波を越えて薄目を開けると、汗ばんだ腕に乾いた土埃がまとわりついている。まるできな粉をまぶした餅のようだ、とぼんやり思う。


「親に売られた分際で、逃げ出そうとはいいご身分だ」

 人買いの大股な足音が近づいてくる。人影が覆いかぶさるのを感じ、私はぎゅっと目を閉じた。

――髪の毛を掴まれる

 しかし、予期していた痛みは訪れなかった。


 顔を上げると、着流し姿の男が私を見ていた。

 その視線から憐憫の情は一切感じない。川に浮いた水草を眺めるような面持ちだ。

――売られた娘が折檻されるのを見て面白いか

 噛み付くようなまなざしと、凪いだ瞳が交錯した。


「この娘がほしい」

 私から目をそらすと、着流しの男は八百屋で野菜でも買うような調子で言った。

「急に出てきて何を言いやがる。この娘は……」

 人買いはなおも大声を出そうとしたが、着流しの男が袂から何かを取り出すと急に静かになり、信じられないといった目で着流しの男を凝視した。

「好きにしろ」

 吐き捨てるように言うと、人買いは足早に去った。


 私は立ち上がり、土埃を払うのも忘れて少女達の後姿を見送った。

「逃げたければ逃げてもいいが、行くところがないなら一緒に来なさい」

 着流しの男が歩き出したので少し迷ったが、やや距離を開けてついて行くことにした。


 男は町を出て山のふもとの一軒家に入ったが、振り返って私を探すことは一度もしなかった。簡素な門から中を覗くと、小さな庭と開いたままの玄関が見えた。

 そこから香る食事の匂いに猛烈な空腹を思い出した私は、意を決して門をくぐった。できる限り身体をはたいて土埃を落としたが、足はもともと裸足だったのでどうしようもなかった。


 家の中は存外簡単な作りで、着流しの男の姿はすぐに見つかった。

 男は肘掛にもたれて本を読んでいたが、私の姿を認めても特に表情を変えなかった。

「そこに来て座りなさい」

 言われるままに進み出て座るのを、凪いだ瞳で見ていた。

――この物好きは私を買って何をする気だ

 人を食ったような振る舞いから壮年の男かと思っていたが、よく見るとかなり若く、年のころはせいぜい二十代といったところか。涼しげな切れ長の瞳が印象的な、整った顔立ちをしていた。


 男は静かに席を立つと部屋を出て行き、大盛りによそわれた食事の膳を持って戻ってきた。改めて対峙すると、とても背が高いことがわかった。

「おなかがすいているなら食べなさい」

――金持ちの道楽か?

 理由はよくわからないが空腹は限界だったので、ありがたく頂くことにした。ぺこり、と深く頭を下げて椀を手に取る。

 私が息もつかない速さで椀を空にしていくのを男は見ていたが、その表情に少し笑顔が混じったような気がした。

 あまりにじっと見られているので食べにくかったが、食事をもらえるなら我慢しようと割り切った。


「次は湯殿だな」

 私が椀を全て空にしたのを見て、男はまた席を立った。

 あわてて後についていくと、男は突き当りの扉を開けたところだった。石造りの小さな湯船には竹筒が引かれており、どういう仕組みなのか、そこから絶えず湯気の立つお湯が流れ出ている。

 私が呆気にとられていると、頭の上から男の声が聞こえた。

「自分で洗えなければ私が洗ってやるぞ」

 私がすごい速さで首を振るのを見て、男が笑った。涼しい目元がますます細くなりなんとも優しげだ。この人は笑っていたほうがいいと思った。

「着替えはここに置いておくから、ゆっくり入りなさい」

 そう言い残すと腕組みして去っていった。


――さて、どうしようか

 今のうちにこっそり抜け出すという選択肢もあった。しかし、ここで逃げればまた人買いに見つかる可能性もある。なにより目の前のあたたかい湯はたまらなく魅力的で、今更ながら汗と土で汚れた肌の不快感を強く覚えた。

――とりあえず入ってしまおう

 汚れた着物を脱いで掛け湯をすると、生き返るような心地がした。置かれていた手ぬぐいを拝借して肌をこすると、見る見るうちに黒くなった。


 のぼせそうになって湯から出ると、いつの間にか汚れた着物は無くなっており、代わりに新しい手ぬぐいと肌着、着物と帯が置いてあった。

――しまった。着物を取られてしまった

 気づいたがもう遅く、仕方なく肌着を身につけた。着物は今まで着ていたものよりずいぶん丈が長いし、まともな帯など結んだことがなかった私は途方に暮れたが、とにかく無理やり着付けて湯殿を出た。


 先ほどの部屋に戻ると、膳はすでに片され、布団が敷かれていた。

 男は相変わらず本を読んでいたが、肩に着物を掛け、帯を前結びに着た私の姿を認めるとやや目を見開いた。

「誘うにしても、もう少しやり方があるだろう」

――そんなつもりはない。人をばかにするな

 顔を赤らめながらにらみつけると、男があぁ、とうなずいた。

 着物の前をかき寄せた私に歩み寄ると、わざわざかがんで目線を合わせた。

「着方がわからないのか。貸してみなさい」

 ぐっと見つめると、男は困ったように笑った。

「大丈夫、何もしない。そのままだと風邪を引くぞ」

 しぶしぶ手を離すと、男は私の帯を解いて肌着姿にした。上気した肌が空気にさらされて心地よいが、男に見られていると思うと落ち着かなかった。

 まな板の鯉のように動くことができない私に、男は慣れた手つきで着物を着付けた。

――なんで慣れてるの?

 いぶかしむ視線を感じ取ったのか、男と目が合った。

「きれいな肌だ」

――なっ!!

「できたからそこに座りなさい」

 うまく丸め込まれた気がしたが、言われたとおりおとなしく座った。


「君が逃げないということは、ここにいたいという意思があると解釈するがいいかな」

 やや間を空けて、私はうなずいた。

「ならば仕事を手伝って欲しい。内容は難しくない。旅館で客をもてなしてもらえればいい」

 そう言われて戸惑った。口のきけない娘に接客ができるだろうか。

「ただし私の客はみな変わっていてね。言葉を交わす必要はない。ただし、試験に合格してもらう必要がある」

 私はもう一度うなずいた。

「試験は夜更けだ。少し眠っておくといい」

 男はそういって席を立とうとしたが、思い出したように言った。

「そうか、寝るなら帯を解いておいたほうがいいな」

 男は私を立たせると、後ろからするりと帯を解いた。

「では少しお休み」

――着せたり解いたり、忙しい男だな

 着流し姿の背中を見送りながら布団に入った。

 仕事を得て衣食住が保障されるなら、これほど恵まれた事はない。それにしても試験とは何だろう。考えようとしたが、すぐに眠ってしまった。


 身体を揺らす大きな手の感触で目が覚めた。

「起きなさい」

 開け放たれた障子から入る月明かりが、傍らに座る着流しの男を照らしていた。身体を起こそうとしたが、ふと違和感を覚えて動きを止めた。

 男の頭の上に何か付いている。何かを見間違えるには、今夜の月は明るすぎた。

 それは、二本の鋭い……角?


――鬼だ

 そのまま動くこともできず、私は息を飲んだ。

「怖いか?」

 男は静かに口を開いた。

 月明かりに照らされた顔は相変わらず端整で、頭の角だけが異形の証を示していた。なんと美しい鬼だろう。

「怖ければ逃げてもいい」

 虫の声も届かず、月明かりのもとに二人の呼吸だけが静かに響いている。


 早く逃げなければ喰われるかも知れないと思った。でもなぜだか、どうしようもなくこの男に惹かれている自分がいた。

 触れたいという欲求に抗えなくて、手のひらでそっとその頬に触れた。男は驚いた顔をしたが、大人しい獣のように静かに目を閉じた。

 手触りと体温ははまさしく人間のそれで、私は不思議な悲しみを覚えた。そっと頭を抱き寄せると、黒い瞳に自分の姿が映った。猫のように甘く膨らむ瞳孔は、獲物を前にした喜びからか。

「今度は合格だ」

 半ばささやくような言葉を耳にしながら、私は目を閉じた。

――あぁ、喰われる

 まるで不可思議な夢のようだった。月の光に彫り起こされた美しい鬼。その八重歯がゆっくりと迫っている。なんと甘美な悪夢だろうか。

 喉元に吐息を感じ、不安と期待で体が熱を持つ。


 その唇が触れるか触れないかという永遠のような刹那、男は私から離れた。

「時間だ。行こうか」

 私は身体を起こしたが、羞恥の表情を隠すには月明かりはあまりにも明るく、顔を背けるしかなかった。吐息の熱が吹き込まれたかのように、私の身体は熱を帯びたままだった。


「今から一緒に山に登ってもらう。ただし何も見てはいけない。私が手を引くから、ついて来なさい」

 男は袂から緋色のたすきを取り出した。

 月明かりに浮かぶ美しい鬼をまっすぐ眼に焼きつけ、私は目を閉じる。柔らかな絹が目を覆う感触。

「できるなら今すぐに味見したい」

 耳元でささやかれ、甘い痺れに思わず身じろきする。


 鬼に手を引かれ、夜の山を登る。

 見てはいけないというそこには、どんなおぞましい景色が広がっているのだろう。

 山を登った後には、何が待っているのだろう。

 私は私自身に、逃げることを許さない。

 例え生きたまま肉を噛み骨を砕かれようとも、この美しい鬼から、どうしようもなく離れられない。

 



最後までお読みいただきありがとうございました。

連載中の作品もありますので、よろしければご覧下さい。

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