七話
新人賞の応募原稿を、最初から最後まで、定期的に少しずつ上げていきます。
翌朝。
まだ惰眠を貪りたいという欲求を払いのけ、目蓋を擦りながら身支度を整えた。
ダイニングへ降りると、すぐに声をかけられる。
「なっちゃん、ネクタイ曲がってるわよ」
そう言うのは、俺の母親。
常ににこにこしていて、笑顔の絶えない人だ。
「夏人。美人で心優しい母さんの言うことをよく聞けよ」
そう言うのは俺の父親。
母さんにベタ惚れで、何の取り柄もない子供っぽいおっさんだ。
俺はネクタイを締め直し、軽く朝の挨拶をしてから、
「母さん、今日も綺麗だね。親父、母さんにベタベタ触るなよ。気持ち悪い」
母さんの手を取って、にやにやしている親父に、呆れ顔を向ける。
もう四十を過ぎているおっさんが、鼻の下を伸ばしている姿ほど、見苦しいものはない。
「ひがむな、ひがむな。どうせお前のことだ。生まれてこの方、女の子とまともに言葉を交わしたことも無いんだろ。だからお前は、美人な母さんと仲良くする父さんが、羨ましいんだな」
得意気にアホなことを口走る親父を、怒気を孕んだ目つきで睨み付ける。
「親父みたいな冴えない男が、母さんと結婚できたことは奇跡なんだ。せいぜい感謝しとけよ」
おそらく、母さんとの結婚で、親父は一生分の運を使い果たしている。
俺を無視して、
「春美~」
「一秋く~ん」
とやっている我が両親。
二人は幼馴染であり、当時から親父は母さんに夢中だったそうだ。
紆余曲折があり、交際期間を経て、二十五歳で結婚。
翌年に長男、つまり俺を授かったという話だ。
「悔しかったら彼女の一人でも連れて来い。ま、いつになるか分からないけどな。愛子ちゃんだって、そんなお前を可哀相に思って、遊びに来てくれてるんだろうから」
「少しは自分の息子に期待しろよ」
流し気味に答え、いつもの席に腰を下ろす。
昨日、アイドル先生の裏の顔を知ってしまい、大人の闇の部分に引きずり込まれた俺が、何故こんなにも平然としているかというと――昨日のことを考えないことにしたからだ。
可愛い美人教師だと思っていた人が、実は校長と教頭のダブルヘッダーを決行するような人格の持ち主であり、さらにはその現場を目撃したいたいけな男子学生を、悪魔のような形相で口止めした事実を、俺の矮小なキャパシティの脳では受けとめ切れなかった。
今も「春美~」と母さんの手に頬ずりをしている親父に、
「いつまでやってんだよ気持ち悪りぃ!」
と怒声を浴びせていると、ドアのところに人の気配がした。
「朝から騒がしい。少し静かにできないの」
「おはよう、小冬」
親父も「おはよう小冬」と続く。
「うん、おはよう。兄さん、父さん」
平坦な口調で答えるこいつは、俺の妹。
能面みたいな感情の薄い顔つき。
素朴というか無感動というかそんな雰囲気だが、弾力がありそうな頬や、無垢な瞳はとても愛らしい。
朝の挨拶だけでは物足りない俺は、
「中学校はどうだ~? 楽しいか? 制服も似合ってるし、今日も可愛いぞ」
小冬が通っているのは、最近まで俺や愛子が登校していた中学校だ。
当然だが、制服は愛子が着ていたのと同じデザインのセーラー服。
小冬は自分の全身を眺めてから、無表情で、
「そう。自分では似合っているか分からないけど。学校は普通」
淡白に答え、俺の隣に腰掛ける。
母さんと挨拶を交わし、湯飲みを受け取る妹に、熱心に話しかける。
「小冬も中学生か~、何か感慨深いよな。ん~、でも、中学に上がったにしてはテンション低いな。まぁ、お前がテンション低いのはいつものことか。いや、だけど普通は舞い上がるものだろ。これから始まる新生活、どんなことが待ってるのかって、期待と不安が入り混じるって言うか、上手く言えないんだけど、とにかくじっとしてられない――――って、小冬、聞いてんのか?」
「聞いてない。中学生か~、くらいから」
間延びした所作でお茶をすする妹。
「結構早い段階で、聞くのを放棄したんだな。兄ちゃんは悲しいぞ、可愛い妹におざなりにされて。俺はお前ともっとコミュニケーションをとりた――」
「お母さん、ご飯をよそってください」
「妹よぉぉぉぉ!」
小冬は、母さんからご飯茶碗を渡された後、注意事項の説明のように淡々と喋り始める。
「あのね、兄さん。兄さんも高校生になったんだから、もう少し落ち着いたら? もっと余裕が欲しいわね。とりあえず、朝ご飯を食べるのが良いと思う。お箸とお茶碗を持って、食事をするの。あ、お箸とお茶碗って分かる? 今私も手にしている、ご飯を食べるための道具のことよ」
「小冬は物知りだな~」
そっけない態度。
だが、これはきっと愛情の裏返し。
そんなところも可愛いぜ。
だけど、そろそろ表側が見たいな~。
大好きなお兄ちゃんに対する、倒錯した気持ちの表れだと解釈して、言われた通りとりあえず箸と碗を取る。
俺と小冬のやり取りを見ていた親父が、おもむろにテーブルに両肘をつき、指を組む。
「小冬よ。中学生になったんだし、もう少し身なりに気を遣ってはどうだろうか」
「必要ないわ。このままで充分」
小冬は事も無げに、「ずずぅ」と味噌汁をすする。
不本意だが、親父の言うことも一理ある。
小冬は身なりやオシャレに、全くと言っていい程興味が無いのだ。
髪の毛のカットも、美容院とかじゃなく散髪屋。
そこのおじさんが、流行のヘアースタイルなど知る由もなく、リクエストしないとほとんどおかっぽになる。
親父は食い下がり、諭すように言い聞かせる。
「心機一転というか、たまには気分転換もかねて、だな。今までと違う自分になれるというか、いやな、別に今のお前が悪いってわけじゃないんだ。ただ、普段からおとなしい小冬が心配で心配で、だから父さんは、」
だらだらと口から零れる要領を得ない言葉の真意、俺には分かる。
「だから、つまりな?」
親父は咳払いをしてから、娘を見据え、
「可愛い髪形で、オシャレした小冬の姿が見たい!」
「お母さん。今度から私と、そこの男性の衣類を分けて洗濯してください」
「娘よぉぉぉぉおおおおおおおおお」
「ざまあみやがれぇぇぇぇバカ親父ぃぃぃぃ!」
「うるさいバカ息子ぉぉぉぉ!」
ついうっかり本音が漏れてしまったようだ。
そのせいで負け犬が吠えてきた。
しかし、浅はかだな、親父よ。
小冬への要望は、そのまま口にすれば良いってわけじゃない。
貸しを作ったときとか、機嫌の良いときに、そぉっと顔色を窺いながらするもんなんだよ!
それにしても、そこの男性って――俺の方が完全にランクが上だな。
「兄さん。二人とも大差はないから」
「心が読まれているッ!」
「や~いや~い、バカ息子! お前に小冬は渡さんわ。無論、母さんもだ!」
「かかってこいよ、クソ親父ッ! 二人とも俺が幸せにするんだ!」
双方立ち上がり、互いの拳が火花を散らして交わる瞬間、小冬がぼそっと、
「あーやかましい。二人とも少し消えてくれないかしら」
ため息とともに出たその無感情な台詞に、親子ともども打ちのめされた。
愛子のローキックとは、質の違う破壊力だ。
母さんはそんな俺たちを見て、柔らかな微笑を湛えていた。
我が家の日常を楽しんでいるのだろう。
テーブルに突っ伏す俺と親父の頭上で、妹が味噌汁を「ずずぅ」とすする音だけが聞こえる。
我が家の天使は、そう簡単に振り向いてくれない。
何かのご縁で、この小説を読んでくださったあなた、ありがとうございます。
またお会いできることを祈っています。