09:差し伸べられた手
ざわめきが、耳の裏から聞こえてくるようだった。
ごった返す人。人、人。
皆色とりどりのドレスやジャケットを着て、豪華に飾り立てていた。どこかの舞踏会だろう。十四歳で社交界デビューを果たしたフリーダは、夏休みの間に父に伴われ、こうして知り合いから招待された舞踏会に赴くことも少なくなかった。
夏休みの間に発作は起きない。
なぜなら屋敷には大勢の男性が存在するからだ。更に、社交の場であれば尚更。ダンスを踊らなくったって、おおっぴらに男の腕に手を置ける数少ないチャンスでもあった。
というのに、フリーダは先ほどから絶えず生唾を飲んでいた。
喉が渇き、胸が高鳴る。必死に扇で笑顔を補っているが、限界が近いのは明白だった。
触れたい。
ともすれば男を求めて、みっともなくふらふらと歩き回ってしまいそうだった。
天井に吊したシャンデリアが反射しそうなほど、ピカピカに磨き込まれた大理石を歩く。ただそれでも意識を集中させていなければ、完璧な淑女は遠ざかる。顎を引き、胸を張って一歩ずつ、どこかにいるはずの父を探し彷徨う。
触れたい。
目と鼻の先を男性が掠めていく。皆口々にフリーダに話しかけてくるが、フリーダは細めた目の隙間から微笑みを返すだけで必死だった。男性の姿が次第に口パクに見え始め、何を話しかけられているのかもわからなくなっていく。
触れたい。
まるで泥の中を突き進むような倦怠感。ひとつ、自分の枷を外せば楽になるというのにという、抗いがたいほどの誘惑。
触れたい。
体中をむしばむ欲望と、表面を取り繕おうとする努力を両立させることは不可能に近かった。
ヒールに支えられる足がぶるぶると震え出す。顔は真っ赤に染まり、汗が噴き出す。
今にも喚き散らしたかった。
触れたい、触れたい触れたい触れたい……。
抗えない欲求に息が弾む。浅い呼吸を繰り返すうちに、フリーダはついに立ち止まってしまっていた。肩が何度も上下に揺れる。
触れたい。
しゃがみ込んで、泣き出してしまいたかった。
誰かにどうにか接近出来ないだろうか。「以前もお会いしましたよね」「父を見ませんでしたか?」「少し加減が悪くて……」どれも話しかけるのに不都合はない。しかし、一瞬でもフリーダから触れてしまえば、すぐさまふしだらという烙印を押されることになるだろう。
触れたい。
未来や家のことなんて気にせずに、もういっそ――
気が狂いそうだった。我慢の限界だった。ふらりと足が男性に近づいていく。
「触れるな」
手を伸ばしたフリーダに、背を向けたまま男が言う。
「気持ち悪い」
「頭がおかしいんじゃないのか」
「淑女だなんて、甚だしい」
「なぜこんな娘に育ったのだろう」
振り返った男の顔は、瞬きする度に変わっていった。見知らぬ男、挨拶をしたことがある程度の男、学院で見たことのある男子生徒、父、そして――
「私はお前が――で、恥ずかしい」
呼吸なんか、出来なかった。息苦しさに喉を押さえる。ひゅうひゅうと、狭い空洞を通る空気のような、空っ風が吹く音がする。
心臓が凍り付き、絶望で視界が染まる。
「ごめんなさい」
言葉が漏れた。あれほど騒がしかったというのに、場には静寂が広まり、皆フリーダを見ていた。罪深いフリーダを、断罪するかのように。
「ごめんなさい」
大理石の床に身を縮こまらせた。
人々の視線が、ドレスの奥の素肌にまで突き刺さる。
「ごめんなさい」
フリーダを取り囲む人々の顔が歪んでいく。真っ黒な人の影の真ん中で、フリーダはただただ額を床に擦り付けた。
謝りながらも、触れたかった。
そんな自分が情けなくて、悔しくて、もういっそ――
「フリーダ」
体が震えた。
人垣が崩れていく。まるで煉瓦が崩れ落ちるように、バラバラと。
蹲っていたフリーダはゆっくりと体を起こした。しゃがみこんだまま、後ろを振り返る。崩れ落ちた人垣の奥に、一人の男が立っていた。
「――ゼンッ!」
気付けば走り出していた。
男の胸に飛び込む。血管が浮きそうなほど強く抱きしめ、顔を擦り付ける。胸いっぱいに匂いを吸い込む。与えられる強い快楽は立てないほどだったが、崩れ落ちるフリーダを彼は難なく支えてくれた。
苦しさも、悔しさも、恥ずかしさも、全てが消え去っていく。
ああ、ああ。ああ――……。
ゆっくりと意識が覚醒する。
枕の上で数度瞬きをすると、フリーダは薄暗い部屋の中でそっと息を吐き出した。全身に汗をびっしょりとかいているせいで、額に髪が張り付いている。
数分をかけて呼吸を整えると、髪をかき分けながら体を起こした。ベッドを取り囲む天蓋を、ゆっくりと開ける。
隣のベッドのカーテンはまだ閉まっている。ナタリエは夢の中だろう。
布団を巻き付けたまま、ベッドの縁に腰掛ける。足を入れた靴がひんやりと冷たい。布団を引きずらないように気をつけながら、窓辺まで歩いた。
絶望という現実は長年フリーダを苛め続け、夢にまでみるほど彼女を痛めつけた。反芻は無限に続き、幾度も幾度もフリーダの喉を掻き切るほどの絶望を味わわせる。夢で会っても、安寧の日々などほど遠い。
死ぬまで自分は一人で耐えてゆくのだと――フリーダはずっとそう思っていた。ずっと。
シュミーズの隙間から伸びた指が織りの美しいドレープカーテンに触れ、希望に満ちた光を体に浴びる。
あれほど夜が明けるのが怖かったのに、その全てが今は輝かしい朝日に溶けて消え去ってしまったようだった。
視界を埋め尽くす枯れ葉を見て、同じ色の髪をした男を瞼の裏に描く。
誰にも、助けを求めることすら思い浮かんだことなどなかったと言うのに。
彼はフリーダの前に現れて、簡単に救っていった。ふしだらだと嫌悪することも、気持ち悪いと軽蔑のまなざしを向けることもなく。
こてんと、窓の枠に頭を寄せる。
彼の与える希望に、未だに現実味が湧かなかった。
彼に手を差し伸べてもらわなければ、フリーダは今も一人震えたまま、夢に、そして目覚めに怯えていたに違いない。
夢の中では身も凍るような絶望が。
そして起きてしまえば、それを現実に起こしてしまいそうな絶望が――
涙がにじんで、視界が揺れた。
先ほどは絶望で埋まっていた視界が、枯れ葉色で埋まっていく。
アイゼンは、フリーダを絶望から掬い上げた。
フリーダが、もう諦めていたほどの希望を携えて。