33:雄弁な眼差し
「じゃあ……周りの女の子全員に、笑いかけるのをもうやめて」
彼の懇願に引きずられた本心を告げると、アイゼンがピタリと動きを止める。
抱きしめ合った体から、彼が息を呑んだのが伝わってきた。フリーダを抱きしめたまま、数秒押し黙る。
そして、至極簡潔に頷いた。
「わかった」
「嘘」
黙っていた数秒の間に、きっとこれからの算段を付けていたのだろう。
フリーダはつま先を立てて、ぎゅっとアイゼンを抱きしめ返した。
「嘘よ、ごめんなさい」
涙混じりの声で、アイゼンの首に顔を埋める。
「その返事だけで、十分……」
にじむ涙を、彼の肌で拭い取る。
湿ったアイゼンの肌に、また一つ、二つと涙が伝う。
どれぐらいそうして、彼に縋り付いていたか。
何かを考え込んでいた雰囲気だったはずのアイゼンはすでに立ち直り、気付けばフリーダの頭を優しく撫でていた。
気持ちが落ち着いてきたフリーダは、ようやくそのことに気付いて慌てた。
フリーダの身じろぎに気付いたのか、アイゼンが口を開く。
「……もし、俺の仮定が合っていれば」
抱きしめた姿勢のまま顔だけ上げると、アイゼンはお互いの額をこつんとぶつけた。
ぶつけあった額から、心地よい痺れが広がっていく。
「俺はだいぶ浮かれてるし、今から本気でツテを全部変えてやる」
アイゼンは今まで見せたことがないほどの、上機嫌だった。声には隅々にまで喜びが満ちているようで、その突然の変化について行けずにフリーダは濡れた瞳でぱちぱちと瞬きをした。
アイゼンの瞳に映る自分さえ見えるほど、至近距離で。
「くそ、下手打った。早とちりして、シオンに借りを作っちまった……」
ぐしゃぐしゃと、アイゼンが前髪を掻き上げる。
「距離は改める。あんたを不安にさせてまで、今の俺がどうこうするもんじゃない」
抱き込んだフリーダに向けて囁くアイゼンに、ついていけてないながらも、ぶるぶると首を横に振った。
「オトモダチとなら、仲良く出来るわ……」
「じゃあ、誰で不安になった」
フリーダの足りない説明でも、アイゼンは理解してくれる。フリーダは、情けなさに喉を震わせながら、小さく呟いた。
「ディアナ」
その名前に、アイゼンは一目でわかるほど渋い顔をした。
「……わかった。切る」
いつも綺麗に整えられているアイゼンの髪が、だらしなく垂れている。真剣な表情に心がぎゅうと締め付けられた。
「……そんなに、なの?」
「あんたは気にするな」
「答えて」
気にするなと言われて気にならないなら、初めからこんなこと言っていない。
「多少は見逃してもらえれば、御の字だな。今のうちから本物を覚えさせておくのは損にはならない。あれは上客になるぞ。なんたって、未来の王子妃だからな」
「まさか」
「本当だ」
自信満々のアイゼンに、フリーダはふと思い出す。
――私とて親しみのこもった笑みの一つくらい向けられたい。
以前、なんとなしに交わしたシオンとの会話を。
フリーダはあの時、この言葉を真剣に受け取らなかった。場を和ますジョークだと聞き流しさえした。
けれどもし、彼のこの発言が、偽らざる彼の数少ない願望だとすれば。
そしてもし、彼の願望を叶えたのがディアナだとすれば……。
「た、例えばそうだったとしても……」
横道に逸れてしまいそうだった思考を、ぶんぶんと頭を振って立て直す。
喉の奥が焼けてしまいそうなほどの嫉妬を飲み込み、フリーダはアイゼンを見上げた。
「……あなたは、彼女が好きでしょう?」
「はああ?」
彼をよく知らないどんな人間が聞いたとしても、偽らざる本音だと知ることが出来るほど、それは心からのものに聞こえた。
「……名前、合ってるか?」
心が軋みそうなほど苦しみながら伝えたというのに。フリーダが頷く。
「……いや、あいつはフリーダ・フリークだろ。俺なんかより、よほどあんたのほうが懐かれてる」
「問題はディアナじゃ無いもの」
「なんだ」
声色が、いつものアイゼンに戻っている。
フリーダは安心して、また涙をこぼしてしまった。
ぽろりぽろりとこぼれる涙の合間を見つけて、言葉をこぼす。
「だってあなたが、あなたがあんな風に、笑うから」
身を震わせてなじれば、アイゼンは心底困ったような顔をする。
「いつだ」
「初めて会ったとき……」
「……」
「彼女に……」
「……」
「頑張れって……」
「……ああ。仕方ない。許せよ。あの時はあんたを思い出してた」
「……私を?」
すぐ隣にいた自分を思い出すという言葉がわからずに、フリーダは問い返した。
「あんたのドレスはディアナの故郷、ザトゥルン地方の絹で作った」
あまりにも思いがけない説明に、フリーダはぽかんと口を開いてアイゼンを見上げた。
アイゼンの作ってくれたドレス――あのいじらしいほどに素敵なドレスを思い出す。何枚ものオーガンジーを重ねた、夜明けのドレス。フリーダのためだけに誂えてくれた、フリーダを支えるための鎧。
そのドレスを着た自分を思い出して、浮かべた笑みだったというのなら……
「あ、なん、え、な……」
急速に熱が伝う。頬も耳も、きっと首まで真っ赤に違いない。
くらくらと目眩までしてきそうなのに、そんなフリーダを見てアイゼンはどこか楽しそうだ。
まるでダンスのリードをするかのように腕を引き、体を密着させる。
「それで、笑顔がなんだって?」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべたアイゼンに、かろうじで動くのは唇だけ。あまりにも予想外すぎて、上手く言葉すら紡げない。
その代わり、フリーダは涙目で睨みあげた。
「……っあなた、はっ。あんな風に、私に。笑ってくれないからっ」
「好きな女の前だ。格好ぐらい付けさせろよ」
にやにやとした笑みを消したアイゼンが、真剣な眼差しをフリーダに注ぐ。
またもや思わぬ反撃に、フリーダは息を呑んでたじろいだ。
話の流れからなんとなく、ひょっとして、もしかしたら、万が一、と思っていたところに直球を食らい、為す術無く俯く。
甘い痺れを伴った彼の手が、真っ赤に染まったフリーダの頬を撫でる。
その手にこれからも触れられる幸福も、その手が特別だと示してくれることが、これほど嬉しいのに……アイゼンにやり込められたようで、悔しさが残る。
「……何でも叶えてやる」
悔しさに勝てずにぽつりとフリーダが呟けば、余裕綽々の顔をして頬を撫でていたアイゼンの手が止まる。
「って、さっき……」
「……」
「……言ったわよ……」
「……」
「ね……?」
「……」
上目遣いのフリーダの視線から逃げるように、アイゼンがそっぽを向く。
そしていつもなら絶対見せてくれない、苦虫を噛みつぶしたような幼い顔で「言った」とだけ呟いた。




