32:切に願う
連れてこられたのは、いつぞやの空き教室だった。
ドレスのために採寸した時のことを懐かしむ間もなく、アイゼンは「くそっ」と椅子を蹴り倒した。その荒々しい言動に、放心していたフリーダも体を震わせる。
「……ああ、悪い」
怯えたフリーダを見たアイゼンは窓辺に寄ると、分厚いカーテンをあけた。薄暗かった教室に光が入り込む。
いつもと様子の違うアイゼンと、教室の暗さに怯えていたフリーダの心が幾分か落ち着いた。
アイゼンは何かを考え込むかのように黙ったきり、微動だにしない。先ほどの怒りのオーラは何処へやら。どこか寂しげな背中に、柔らかい光が差す。
気付けばその背中に向けて、フリーダは一歩踏み出していた。
「……アイゼン」
声をかけて戸惑う。
呼び止めて、なんと言うつもりだったのか。
フリーダは思わず転がり出た言葉に驚き、口を噤んだ。
慰めるつもりだったのだろうか。彼女以外にもきっといい女性が見つかるわ、とでも?
それとも、浅ましい自分の本音……他の女を見ないで、とでも懇願するつもりだったのか。
苦しくて、笑う。
彼にそれを言うのか。将来のために、こんな悪癖を持っていた女と契約までして人脈を築き上げている彼に。
持てるものは何でも使うのが商人。情報でも、ツテでも、女でも。彼は間違えていない。間違えているのはこちらだ。
ただの、契約相手のくせに――彼の特別を欲しがってしまった、自分だ。
「乱暴にして悪かった。大丈夫か?」
眉根を寄せて、アイゼンが近づいてきた。フリーダに触れようとして手を伸ばす彼から、反射的に体を反らす。
「……フリーダ?」
「……ご、ごめんなさい」
拒んだ触れ合いなどなかったかのように、フリーダはアイゼンに手を伸ばそうとして――止めた。
いつまでも誤魔化して何になるというのだと冷静な自分が、恋する自分を窘める。
覚悟すべきなのだ。そして、彼の恋路が上手く行こうが行くまいが――送り出すべきなのだ。
「……言わなきゃいけない、ことがあるの」
「へえ?」
決死のフリーダの覚悟を、アイゼンは薄ら笑った。
いつもとは違う雰囲気のアイゼンにたじろぎながらも、フリーダは口を開いた。
「契約を……終わらせたいの」
咽び泣きたいくらいの苦しみと、悲しみがフリーダを襲った。
言ってしまった。もう、取り返せない。
もう、彼のそばにはいられない。
自分の体を巡った変化を説明するに当たって、彼への気持ちも告げなければならないかもしれない。その時を思うと、身が竦む。
恋など必要ないと言っていた人が、恋をした。
彼のツテとなるには、心許ない女の子に。
そんな人に愛を伝える勇気など、どうやって持てばいいのかわからなかった。
自分の弱さを直面し苦痛の表情を浮かべるフリーダを、アイゼンが見つめる。
踵を鳴らし、一歩ずつ近づいてくる。
「……それは俺が、乱暴に接したから?」
それとも、とアイゼンが掠れる声で呟く。
「シオンに触れた時――俺とは何かが違ったか?」
目を見開く。
驚愕の色を隠せないまま、フリーダはゆっくりと顔を上げた。
「……何故、それを……」
フリーダの表情を見て、アイゼンは全てを悟ったかのようだった。
「……見ていたらわかった。ああ、くそっ……わかってたんだよ」
前半はフリーダへ、後半は自身に向けたかのように、アイゼンが嘆きを吐き出す。
「あれからだもんな。あんたが俺に触られるのを戸惑いだしたのは……その他大勢と同じ、兄貴の身代わりなだけの男と、ただ一人の特別な男は違ったんだろ」
鋭利なナイフのような口調で噛み付かれる。
フリーダは震える口元を指先で押さえた。アイゼンの怒りに満ちた目を近くで見ていられずに、一歩後ずさる。
彼は、やはり気付いていたのだ。
フリーダの悪癖に対する戸惑いも……恋心さえ。
動揺し、逃げるフリーダを目にするとアイゼンは立ち止まった。
彼がゆっくりと目を閉じる。眉根を寄せ、口を引き結び、何かを堪えるかのように。
「……言えよ」
衝動を、理性で抑え込んだような声色だった。
「言えよ、何でも叶えてやる」
何か反応するよりも先に、アイゼンがフリーダを抱きしめた。
「目障りなやつがいるなら引き剥がしてやるし、シオンにあんたを売り込んでもいい――あいつとの時間だって取り付けてやる」
その沈痛なまなざしは、押し寄せる痛みを誤魔化しているかのようだった。フリーダを抱きしめる腕は、精一杯に抑制されている。
「シオン、様……?」
何故ここでまたシオンの名が出てくるのか定かではなかったが、フリーダはアイゼンの覚悟に慄いていた。
フリーダの知る限りのアイゼンは、決してシオンを取り引きの材料にしなかった。
彼にとってシオンは対等で、かけがえのない友人だ。
たとえ契約とはいえ――恋人という立場を利用されていたフリーダとは格が違う。
アイゼンにとって、決して侵さない領域。
それが、ヨシュカとシオンへの比類なき友情なのだと、フリーダは思っていた。
そのシオンを取り引き材料にしてきた彼の真意が見えずに、返事の一つできやしない。
「ああそうだ――その代わり」
会話についていけていないフリーダを、置き去りにするアイゼン。
焦っているような、弱っているような。
そんなわけがないのに、酷く心細そうな印象を彼から受けたのは初めてで、フリーダは更に混乱する。
「契約の破棄はまだしない。あんたに、男の手が必要なくなるまでは……そばにいさせてくれ」
悲しみが紛れているかのように語尾が震えていた。
抱きしめるアイゼンの腕に、力がこもる。
フリーダの肩にアイゼンが額を押しつける。赤銅色の髪が頬をかすり、彼の匂いをフリーダに思い出させた。
懐かしさと、堪えられない愛おしさに涙がにじむ。
「……なんでも、叶えてくれるの?」
「ああ」
何も考えられなかった。
今は、何も考えたくなかった。
心臓があまりにも早鐘を打ち過ぎて、麻痺してしまったかのようだった。
「じゃあ……周りの女の子全員に、笑いかけるのをもうやめて」




