30:王子の興味
「――まあ、シオン様が?」
「そうなんです。もうめんど……じゃなくて。気疲れしちゃって……」
はああ、と特大のため息をついて、テラステーブルに突っ伏したのはディアナだ。
どうやら無事に林檎は卒業できたらしく、その頭から真っ赤な林檎は立ち退いていた。
ぱちぱちと瞬きをするフリーダの隣で、ナタリエが渋い顔をする。
「シオン様直々に礼儀作法のご教授ねえ……あ、だめ、胃が痛くなってきた……」
「ですよね!? 最終的に完璧な姿をお披露目する相手に、なぜこんなペンペン草の時分から見られなきゃいけないのかと思うと……辛い……」
確かにそうだと、フリーダはティカップを傾ける。
他にも諸々理由はあれど、礼儀作法を学ぶ一番の理由はいわば、王宮で披露するためだ。披露する相手に手取り足取り学ぶなんて、確かに非常に気まずいことこの上ない。
「今まではシスターから学んでいたのよね?」
「はい。けど私の物覚えの悪さに頭痛が酷くなってきたみたいで……」
「通り際に話を聞いていたシオン様が名乗り出た……と」
聞いた話から続きを補完したナタリエに、ディアナは再び「はい」と言った。
「緊張感が無いから練習に身が入らないんです! って、シスターってば、こーんなに目をつり上げて言うんですよ」
「似てる似てる」
「……だからって今度は緊張感ましまし過ぎません?? あんなイケメンの前じゃ緊張しすぎてむしろなにも身に入らないっていうか、頭に入らないっていうか……」
「ましまし? いけめん?」
「緊張感盛りだくさんと、美青年ってこと」
「確かにシオン様はお美しいわね」
「突出してますよね」
何度目になるかわからないため息をディアナが吐く。
フリーダはよしよしと、橙色の髪を撫でてやった。
彼女によって引き出された嫉妬であるが、フリーダはディアナを嫌いになれないでいた。慣れない環境でも懸命に励む彼女の姿勢は尊敬するし、懐いてくれる姿は素直に好ましかった。
フリーダにはたくさんの学友はいるが、友人と呼べる存在はあまりいない。ディアナはその数少ない友人の枠に入っていた。
「それでっ!」
「それで?」
身を乗り出したナタリエに、ディアナは首をかしげる。
「それで? じゃないでしょ!」
「だって」
「シオン様と二人っきりで礼儀作法の練習なんでしょ?」
「そうですよ」
「あの! シオン様と! まさか……何も感じないほどでくの坊じゃないでしょうね」
「何も感じないって……そりゃプレッシャーは感じてますよ」
「でくの坊だった! なんたるお子ちゃま! あんな上物の時間ゲットしておいて、プレッシャーですってフリーダ!」
話を振られてしまった。
入り込む余地を感じられないフリーダは、手の平を差し出して二人に会話を譲る。
「他にもなんかあるでしょ、ええ? 感じること」
「えええ……もしかして恋とか愛とかトキメキってことですか?」
「それ以外に何があるのよ」
「そりゃああんだけ綺麗ですからね、ドキッとする時もありますけど」
「でしょう?」
「でも何夢見ちゃってるんですかって感じですよ。話し方も立ち振る舞いも、まるで別世界。別の世界の人間と、心を通わせる難しさは痛感しましたから……」
ディアナは避けていたカップを手に取って、ズズッと音を立ててお茶を飲んだ。途端にハッとして周りをキョロキョロと見る。
「……それに、彼の前じゃお茶を飲むことさえ気軽じゃないんです。シオン様けっこうスパルタだし……折り合いの付け方と根性。あとお友達だけ手に入れて、私は自らの世界に帰ります」
「何それ」
ディアナの言葉にナタリエが呆れ半分で笑う。
折り合いを付けると言うことはそういうことだ。過度な期待も、信頼もしない。
数限られた特別な生徒以外は、きっとみんなそうやって過ごしている。本当の友人や恋人を手に入れることは、どんな場所であれ難しい。それが、身の振り方が生涯に関わるシュトラール学院ではなおさら。
彼女が円滑に過ごせるよう助言したことに、後悔はしていない。けれど、あの意志の強い瞳が陰ってしまったことを、フリーダはほんの少しだけ残念に思った。
「礼儀作法だからしょうがないんですけどね……育ってきた環境を全て否定し続ける男の人に惹かれるっていうのも、難しい話ですよ」
ばたんきゅう、とディアナは大げさにテーブルに突っ伏した。
茜色の髪を、そっとフリーダは撫でた。
***
とは言え、やはり距離は縮まるのだろう。
それからというもの、シオンとディアナが共にいる姿をよく見かけるようになった。
これまで特定の女生徒を側におかなかったシオン。
王子という身分と、柔らかい物腰、そしてみなぎる自信を裏付けるかのような美しさと優秀さ……彼は非常に魅力的な男性だった。
互いに遠慮し合い、または牽制し合っていたために、シオン自身にアプローチする女生徒は少なかったが――彼に惹かれる女生徒がいないはずがない。
そして、出る杭は大槌で打たれる。
ディアナへのやっかみは相当なものだった。ディアナ自身の出自も手伝い、前代未聞の混乱を呼んだほどだった。
シオン自身も気にかけてはいるようだったが、悪循環のように妬みを呼び寄せた。同じ女子であるフリーダのほうが出来ることは多いだろうと、ディアナに対して過保護とも言える態度で接した。
「せっかく! 友達が出来たのに! こんなことってあります!?」
ぐやじいい!! と地団駄を踏むディアナを、フリーダは人気の無い場所まで連れてきていた。校庭の隅の、茂みになっているところだ。ここならば、多少大声で叫ぼうが、転がりまくろうが、人目につくことは無い。
「もう腫れ物以上の腫れ物扱いですよ! 目の上の腫れ物に触る人間なんて、いませんもんね! あーあー嬉しいなーやっかみでお腹いーっぱいはっはっはー!」
庭師が丹精込めて刈り上げた芝を掴んでは、ぶちぶちっと引き抜くディアナ。目はうつろで、口からは常に魂が抜けたような笑い声が漏れている。
「けっこうわかりきってた結末だった! こうなるって、こうなるってわかってたのに!」
なんで近づいてきた――あんの、ド腐れ腹黒ぉおおお!!!
ぶちぶちぶちっと芝が大量に引き抜かれた。シオンの名前を呼ばなかっただけ褒めてやりたい。いくら学院内は無礼講とは言え、言っていいことと悪いことはやはり存在する。
ディアナの手から放り投げられた芝が、空を舞う。なるほど、これがちぎっては投げ、というやつなのかもしれないと的外れなことをフリーダは考えていた。
その怒りは中々収まりを見せないらしく、咆哮は止まらない。騒ぐだけの元気があるのだから大丈夫かと安心する。
ディアナの言うとおり、フリーダもシオンの行動を軽率だとしか思えなかった。
自らの立場や影響を人一倍慮る人だと感じていた。個の感情を抑え、取るべき行動を取れる人だと。
フリーダとて、シオンと特段親しいわけでは無い。アイゼンを通して幾度か交流の場を持ったが、その時の印象では考えられないことだった。
後ろ盾の無い庶民のディアナを、特別親しい距離に置いておくなど。
「……きっとすぐにほとぼりが冷めるわ」
何の確証もない慰めが口を突き、自分でも呆れた。
ディアナはふいと顔を逸らすと、唇を突き出した。
「……興味だって、すぐに冷めるに決まってます」
え? と思って下を見れば、しゃがみ込んで草を毟っていたディアナが立ち上がっていた。そしてスカートの裾を持ち振り返ると、見違えるほど上品な仕草で礼をする。
「はい、フリーダさん」




