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03:取り引きと対価

「取り引きする気はあるか?」


「……取り引き?」


「簡単だ。つまりは、約束をしようって話だよ。ガキがシロツメクサの絨毯の上で交わす口づけではなく……対価を伴う、信用に値する約束ってやつだ」


 魅惑的な言葉に、フリーダは思わず生唾を飲んだ。

 彼女が明かさねばならなかった事実は、鍵も無い檻に入れておくにはあまりにも無防備で、外聞が悪すぎた。


 初対面に近い男にでもところかまわず抱き付くような色情魔――


 そんな噂がのさばれば彼女のみならず、家の名にも傷がつくことは明白。

 期待からこわばっていくフリーダの表情から緊張を読み取ったのか、アイゼンは言葉を重ねる。


「俺は、約束は守る」


「――信頼します」

 声が震えぬように、冷静を努めて言えばアイゼンはにやりと口角を上げた。


「そうしてくれると助かる。それで、俺の提案だが――俺のできる限りであんたを支え、秘密ごとあんたを守ろう」


 フリーダは、息を呑んだ。

 彼女は馬鹿な女ではない。慎み深く、思慮深い女だ。だが、どれだけ考えても、何度頭で反芻しても、全て同じ結果にいきついた。


「……それは、つまり……」


「男に触れる権利をやるよ。あんたが望むだけ、俺が抱きしめてやる」


 眩暈がしそうなほど魅力的な言葉だった。

 取り引きということを一瞬忘れてしまうほど、それはフリーダの心を揺さぶった。

 一にも二にも頷きたくなる衝動を堪え、フリーダは必死に口を開く。


「……この悪癖を黙っていてくださることと合わせて、報酬は如何ほどに?」


 言葉を憚らずに言えば、体を売るということだ。

 貴族の娘とはいえフリーダが自由に出来る金額は常識の範囲内でしかなく、男を買い続ける余裕があるかと問われれば、否と答えるしかなかった。


「報酬は、あんたの隣だ」


 自信に満ちながらも、どこか甘さを残していた声色から一変して、アイゼンはそう断言した。


「あんたの隣をもらう」


 もう一度告げられ、フリーダはハッとした。


「それは私への条件では?」

「いいや。リープリング伯爵、クレヴィング家のお嬢さん」

「……皆さんと同じく、私もただ爵位を持つ父の元に娘として生まれただけ。土地を耕す権限の一つ、私は持っていません。それでも?」

「あぁわかってる。そんなものはあんたに望んじゃいない。そのうち自力で手に入れるさ」

 何でもない事のようにアイゼンは言ってのけた。


「それよりも、もっと価値のあるものだ」

 どれだけ俺が足掻いても持てないものを、あんたは持ってるだろ?


 アイゼンの意味深な笑みを見つめ返す。

 そして、自らが誇れるものを黙考し、その中で一番価値のあるものを口にした。


「……いくらこのような私でも、お友達を売るようなことはできません」


「売る必要はないさ。ただ、俺を紹介してくれればいい。あんたの隣に立つ男になったと」


「そんなことで……よろしいの?」


 アイゼンの手に入れた情報は、フリーダの最も重要で繊細な弱点だった。それは、ひいてはリープリング伯爵の名誉にも関わる。そんな重大なことを、そんな些細なことで解決できるなんて、フリーダは夢にも思っていなかった。


「リープリング伯爵自慢の美姫のエスコート権が、金で買えるとでも? あんたの隣にいるだけで、俺は丸儲けだ」


 フリーダのジュエリーになると言っている割には、随分と不遜な男だ。


「自分の価値は重々自覚なさっているだろうが……こんな付け入る隙を男に見せたのは失策だったな。いや、意図的なら随分とやり手だ。是非ご教授願いたい」

 アイゼンがフリーダの髪を掬い、肩越しにいじる。

 やり手と言われても、何のことかわからない。自分の悪癖を伝えたのは、未だ離れられないでいた彼への贖罪になればと思ったからだ。

 そう。フリーダはまだアイゼンから離れていない。離れられない。欲望を抑えるために、欲望のままに触れる。なんと礼を逸した行為だろう。

 自分の行いを直視し、フリーダが形の良い唇を噛む。

「……やはり」

「どうした」

「……やはり、よくないのでは……」

「何を悩む必要が? あんたにとっても悪くない条件だとは思うが?」

 その通りだ。良すぎるから、ブレーキがかかる。

 アイゼンの条件を聞きながら、ずっと思っていたことを口にした。


「私はきっと貴方を、大切にできない」


 消え入りそうな声に、アイゼンは片眉をあげた。


「美人に触れられるのは、俺にとっては利益に振り分けられるが?」

「ななな……びびび……ふ、触れ……!」

 直接的な言葉に返答が出来ず口ごもるフリーダのつむじに、アイゼンが囁く。


「じゃあ、偽りの恋愛に罪悪感が? 思い出せ。これは取り引きだ。面倒な感情は互いに要らない」


 フリーダの深緑色の瞳が見開かれる。


「……取り引き、そう。取り引き……私が貴方にツテを与え――」


「俺が、あんたに男のぬくもりをやろう」


 先ほどよりもしっかりとアイゼンがフリーダを抱きしめた。

 フリーダは悲鳴のかわりに、ほぅと息を吐く。そんな彼女を見て、アイゼンが喉の奥で笑う。


「生真面目だな。一瞬の恋を楽しんでる生徒なんて掃いて捨てるほどいるのに、あんたは出来なかったのか」

 学院は男女交際を制限することはない。

 むしろ将来の為に練習の場として解放しているのだから、節度さえ守れば推奨しているといっても過言ではない。


「オールドミスさながら古風な付き合いしか出来ないなら――あんたはもっと早くに、その首にぶら下げる男を金で買うべきだった」


 アイゼンの親指が眉間に触れ、伸ばすように撫でられて気づく。度重なる苦渋を耐えるため、いつしかフリーダの額に皺が刻まれていたことに。

 褒められるべきではない、不躾な触れ合いだ。それでも、嫌悪は感じない。

 フリーダを脅したり、騙したり……いくらでも意のままに操れるはずの彼が、真正面から取り引きを仕掛けてきたからかもしれない。


「それにしても、到底信じられない与太話だ――あんたじゃなきゃ、俺は信じなかっただろうよ」

「なぜ、私ならば信じたと?」

「おや、我らが“白百合の君”は、ご自身の評判をご存じないと見える」


 “白百合の君”――自身がそのように仰々しい敬称で呼ばれていることは知っていたが、いざ目の前で呼ばれてしまうと、どう対応していいのかまごついてしまう。


「人知れぬ奥地でひっそりと咲く、朝露を宿したままの純粋な白百合――」


 まるで狂言廻しのように抑揚のついた大仰な台詞が、アイゼンの不敵な表情に似合っている。


「女は無垢にあんたを慕い……」


 彼の言うように、フリーダは女生徒から慕われている。しかしそれは偶然の産物でも、ましてやフリーダが純粋だからからでもない。


 フリーダには、どれだけ人に親切にしても、どれだけ勉学に励んでも、どれだけの徳を重ねても……到底まかなえないほどの欠点がある。


 自らの難点に引きずられないように、そして誰にも露呈しないように――完璧な淑女を目指していただけだ。


「男はあんたの雫を啜る最初の男になれる日を、毎晩寝台の上で夢想する」

「? はあ……」

 詩集は好きだが、彼はフリーダの好むどの詩人とも違う感性の持ち主のようだった。

 全く理解できていないことを、彼女の表情を見て読み取ったであろうアイゼンがくくくと喉で笑った。

「“白百合の君”には、わからなくていいことだ」

「そのようですね」

 男社会をのぞき込むような無作法を、フリーダは家でも学院でも学んだことはない。頷き一つで流した彼女の頭を、アイゼンがポンポンと軽く叩いた。


「女なら、辛い思いもしただろう」


 それはまるで、挨拶のついでのように。


 深く心に染みた言葉を閉じ込めるかのように、フリーダは瞳を閉じた。

 これまでの触れ合いで与えられていた癒やしとは、どこか違う歓喜が芽生える。


 フリーダはこの悪癖を、誰にも相談したことがなかった。

 どれだけ気を許した友人にも、親身になってくれた侍女にも――家族にさえ。

 言えるはずがなかった。こんなこと、言えるはずがなかった。


 一人で抱え、頑張り続けてきたフリーダは……きっと、だからこそ、気が抜けてしまった。

 我慢が効かずに抱き付いてしまった人間に、べらべらと秘密を話してしまうくらい。


 話したのは、贖罪のつもりだった。

 だけどもしかしたら、聞いてほしかったのかもしれない。


 そして、あわよくば。

 夜空に広がる星の、一つ分の確率ぐらいで――


「これまでよく一人で頑張ったな」


 優しく、されたかったのかもしれない。


 抱き締められる。ふわふわとした温もりがフリーダを支配した。

 フリーダは、しがみ着いている手に力を込めると、覚悟を込めた声で応えた。


「制服を纏っている間だけであれば――」


 学院での恋は、卒業するまで。

 学生全員が知るところである不文律だが、フリーダはあえて言葉にした。







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