26:優しさのバトン
ディアナはフリーダを見かけると、笑顔を浮かべるようになった。
まだ満面の笑みとはいかないが、ディアナが気を許してくれ始めているのを感じる。
元々、誰にでも親切な“白百合の君”だ。
自分に懐いてくる下級生を無碍にするような人間ではない。
「ごきげんよう、ディアナさん」
放課後、食堂に隣接する庭で、ディアナが大口を開けてパンにかぶりついていた。明るい橙色の髪に、ささやかに留められた白い百合の花のバレッタ。
ディアナを見つけると、フリーダは完璧な淑女の笑みで微笑んだ。
顎の角度、目線の位置、声の抑揚、爪の揃え方、つま先の方向まで。全てを意識し、意のままに操る。
「んご……ごきげんよう、フリーダさん。ナタリエさん」
そんなシュトラール学院の白百合に話しかけられたディアナは、慌ててパンを飲み込むと立ち上がった。フリーダという最高の見本を何度も見ることで、出会った頃よりも随分とマシになった挨拶をディアナが返す。
「また会ったわね、おちび」
「ナタリエ」
「ごきげんよう、おちびさん」
フリーダに窘められたナタリエは、ディアナに向けてフンと鼻を鳴らした。
「……この挨拶が許されるなら、私はもう精進する必要が無いと思うんですけど」
「ディアナさん。いつの世も、何処へ行ったとしても、年長者とは常に身勝手なものなのよ」
「……ここで身につけるのは、折り合いですか。根性ですか」
「どちらもよ」
ふふふと微笑むフリーダに、ディアナが渋面で「はい、フリーダさん」と返した。
「もうこれ以上フリーダの右も左も前も後ろも、渡さないんだから。あっちへお行き!」
フリーダの前に立ち塞がったナタリエがディアナにすごむ。その手にあるトレイの上には、茶器が載せられている。
「私、喧嘩なら買い慣れてますけど」
「あら。私だって売り慣れてますけど」
バチバチバチ。
女同士の激しい火花が飛び散る中、フリーダは二人をテラス席へと誘う。
「私のナタリエと、可愛いディアナ。こちらに来てお茶の用意を手伝ってちょうだい」
トレイをテラス席に置いたフリーダが、二人に向けて声をかける。「はーい!」と明るいナタリエの声がした。
ディアナは居心地悪そうに立ち上がると、お尻をパンパンと叩いた。彼女は芝の上に座りこんで食べていたのだ。悪いことではないが、フリーダはテラス席に座りたかった。下級生は上級生に従うものである。
トレイの上に載せてあった茶器をテーブルに置くと、フリーダが二人にお茶を注いだ。
「フリーダのカップがなくなっちゃうじゃん」
「私は二人ほど騒いでないから、それほど喉は渇いてないわ」
微笑んだフリーダに、ナタリエとディアナは顔を見合わせたあと、小さな声で「はい、フリーダさん」と答えた。
「まだステップを踏むところにもいけてないみたいで。ひたすら頭の上に本を置いて、教室をぐるぐる歩いてます」
「へえ確かに。少しはマシになってきたんじゃないの、歩き方」
なんだかんだで、おしゃべり好きで面倒見のいいナタリエが、ディアナの相手をしている。追加のカップに紅茶を入れ、三人でテラス席に座っていた。
三年生から編入してきたディアナは、勉強よりも礼儀作法に手間取られているようだ。シュトラール学院の多くの生徒は、幼い頃から乳母や家庭教師により教育を受けている。ディアナと他の生徒達との差は、疑う余地もない。
「千里の道も一歩からよ。本を載せて千里歩けるように頑張って」
「……はい、フリーダさん」
露骨に嫌な顔をしながらもそう言うのだから、フリーダはディアナが可愛くてころころと笑ってしまう。
そんなフリーダを見て苦笑したディアナは、何かを思い出したような顔をした。そしてディアナはしばらく沈黙しすると、意を決した顔をして口を開いた。
「……フリーダさん、あの」
「なあに?」
ティカップを口につけつつ微笑むと、尋ねにくそうだったディアナの眉が下がる。
「……“白百合の君”って呼ばれてるって、本当ですか?」
いえあの、似合うとは思うんですけど。と口ごもったディアナに頷く。
「ええ。恐れ多くもそう呼ばれることもあるようね」
それで? 話の続きを促せば、ディアナはやはり言い難そうに口をもごもごとさせる。
「その……」
なんと言い出そうか迷っているようなディアナがそっと触れたのは、自身の髪に飾られている白百合のバレッタだった。
「これなんですけど……」
「少しはお役に立ったかしら」
ディアナの意図をくみ取ったフリーダが優しく尋ねる。彼女の顔が強張った。
「……やっぱり、そういう意味だったんですか」
「多少の不愉快は我慢なさい」
ディアナの顔がゆがむ。それは、安堵とも、屈辱ともとれた。
小さな白百合のバレッタ――
シュトラール学院の生徒ならば、その装飾の意味を深読みしても致し方あるまい。
加えて、フリーダ自身が好んで身につけていたバレッタであれば、なおさら。
フリーダは元々、注目を浴びる生徒だった。完璧な淑女として。教師にも信頼を寄せられる優等生として。
さらに近頃では、アイゼンと関係を持ったことでさらに加速した。多くの生徒が、ディアナの髪に咲くオーガンジーの白百合が、フリーダのものだと記憶していたことだろう。
そしてフリーダは万人に与える慈愛――と、ほんの少しの特別な愛をもって、ディアナを見守った。
フリーダは、ディアナを見かける度に声をかけた。
人がいない場所でも、集まる場所でも。
白百合の飾りを身につけたディアナは、“白百合の君”の足下に咲く女生徒として、瞬く間に知れ渡ることになったのだ。
周囲の評価は、待遇は、一変したことだろう。
フリーダの手心が加わっているものを表立っていじめようとする生徒は、シュトラール学院にそうそういないはずである。
「……はい、フリーダさん」
鼻の上に皺を寄せて答えたディアナに、ナタリエが頬杖を突く。
「いたく不満そうじゃない」
ディアナはナタリエを見つめると、つんとそっぽを向いた。
「いいわよ。おっしゃいなさい」
フリーダがディアナに向けて言った。ディアナはうっと息を呑んだ後、けれども意思を載せた瞳でフリーダを見つめる。
「……こういうのって、ずるくないですか」
ぽつりとディアナの唇から言葉が零れる。
「確かに、いじめられることは無くなりました。みんな親しげに話しかけてくれます……私だって子供じゃないから、対応しますけど、でも。結局認められたのは、私じゃない」
「ええ、そうね」
今にも飛びかからんばかりに腕まくりをしたナタリエの腕を掴むと、フリーダは出来るだけ抑揚を付けずに頷いた。
ディアナの顔がくしゃりと歪む。
「……わかってるんです。私じゃどうにも出来なかった。泣き寝入りして、人知れず、学院から逃げ出すのが関の山だった。……フリーダさんが力を貸してくれたって、わかってるんです。だけど、悔しい」
そう言ってディアナは顔を両手で覆った。
「人を認めさせるには、時間と努力……そしてタイミングが必要よ。それまで人の力を借りることは、悪いことでは無いわ」
「それがお貴族様のやり方ですもんね――優しくされる理由も無い人に、過度に親切にされなきゃ自分のプライドも守れないなんてっ……!」
「あんたねえ、言わせておけば!」
「ナタリエ、座って」
いきり立ったナタリエを、フリーダは静かな声で押しとどめる。
ディアナの苦痛を、フリーダはまるで自分の苦痛のように思った。彼女のこの叫びを、フリーダは自分ならば理解してやれると思っている。
ディアナの肩が震えた。
顔を覆う両手に力が入っているのが、見ているだけでもわかる。
「――けど、安堵してる私が……一番悔しい」
涙混じりの声だった。
ナタリエは唇を突き出すと、ふんと大きなため息をついて椅子に座る。
「辛いときに手を差し伸べられれば、誰だって、どんな人だって……私だって。安堵するわ」
フリーダは体ごと近づくと、ディアナの頭を包み込むようにして、ぎゅっと抱きしめる。
ディアナにとって、ほとんど初対面のフリーダに助けられるいわれなど、本人の言うとおり全くなかっただろう。
しかし、理由や原因など本人に介入しなくとも――苦しさを取り除いてもらえるのは、本当に、本当に嬉しいことなのだ。
フリーダはそれを知っていた。
「次は、あなたがそうするのよ」
「……?」
「いつかあなたの前に、明けぬ夜を迎えようとする者が現れたときに……今度はあなたが、その人を助けるの」
抱き込んでいるディアナが、もぞもぞと動く。
腕の力を抜けば、ディアナがしゃくりあげつつフリーダを見上げていた。
フリーダはにっこりと微笑む。
「それが、私があなたを助けた理由よ」
返事は? ディアナさん。
いつもと変わらぬ笑みを浮かべるフリーダに、ディアナは涙を拭いながら言った。
「はい。フリーダさん」




