25:嵐を呼ぶ編入生
灰色の空と積もった雪が、視野いっぱいに広がる。
ほうと吐く息さえ白く、研ぎ澄まされた冷たい空気が身に染みた。
学院指定のガウンに身を包み、フリーダは廊下を歩く。授業の休憩時間に教師に呼び出され、他の授業の準備を手伝わされていたのだ。こうした雑用や教師の頼み事を、嫌な顔ひとつせずこなすことによって、フリーダの信頼は培われている。
とは言え、そろそろ急がなければ次の授業に遅れるだろう。
早足になったフリーダの背後から、カッカッカッカッカッという、馬の蹄のような足音が響いてきた。
「廊下を走っているのは誰です!」
上級生の鋭い声が飛んでくる。フリーダの背後から聞こえてきていた、けたたましい足音が、ピタリと止んだ。
「この歴史あるシュトラール学院の廊下を、スカートを翻しながら走るなんて……!」
上級生の甲高い悲鳴に、フリーダは心の中で深々と頭を下げた。
その点については、フリーダにも覚えがある。アイゼンと出会う前はムラムラする度……いや、男子生徒を見る度に、人目を忍んで走ったものだ。
「すみません、でも授業に遅れそうで……」
聞こえてくる声は少女のものだった。口調は丁寧だが、不満な色は隠そうともしない。
上級生に口答えするとは、随分と命知らずな真似をする。
フリーダはそっと振り返り、ことの成り行きを見守る。
「休憩時間は十分あるはずでしょう。自分の怠慢のせいで規律を乱すことは許せません」
「私だけ移動教室を教えてもらえなかったんです!」
憤懣遣る方無し。といった声が冬空に響く。
茶髪と言うには明るすぎる夕焼け色の少女の髪は、肩の辺りで揃えられている。橙色の髪にどこか見覚えを感じた。意志の強そうな瞳が、真っ直ぐに注意を促してきた上級生を射止めている。
「こんなしょうもないこと、歴史あるシュトラール学院の生徒のやることなんですか?」
「なっ……」
あけすけな物言いに、上級生が閉口する。
見守っていたフリーダはそっと近づいた。
「ごきげんよう」
「フリーダさん……ごきげんよう」
上級生は味方を見つけたかのようにほっとした表情を浮かべる。反対に、茜色の髪の毛の女生徒は、絶体絶命のピンチに陥ったと判断したようだ。唇を噛み締め、眉をつり上げてフリーダを見つめた。
「ごきげんよう。あなた、教室はどちらまで?」
フリーダは穏やかな声で少女に話しかけた。その態度に拍子抜けしたのか、少女はぱちぱちと瞬きをする。
「第二、講義室です……」
「挨拶もせずに、何事ですか!」
上級生の叱責で渋々少女は腰を折ったが、お世辞にも上品とは言えない礼だった。
「私もそちらに用があります。上級生として、シュトラール学院の心構えを道すがら説きましょう」
清楚に微笑んだフリーダに、少女は頬を引きつらせた。
上級生は安堵して頷く。
「フリーダさんなら間違いありませんね……私では手に負えないようです。後は任せましたよ、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
上級生と別れの挨拶を済ませると、フリーダは少女に向き直る。
「私はフリーダ・クレヴィング。五年生よ」
「……ディアナ・トラレスと言います。三年生です」
「ディアナさん?」
三年生なら、ほとんどの生徒の顔と名前が一致するはずだが、彼女には見覚えもあまりなかった。雰囲気から、もっと下だと思っていたフリーダは驚いた。
「今年から編入してきました」
そうだ。思い出した。彼女の姿を、フリーダは以前にも一度見ていたのだった。以前見た時も彼女は走っていて、そしてやはり印象的な髪に目がとまった。
フリーダはディアナを見て驚いた。
編入生は珍しいことではないが、その多くが貴族の子女であるからだ。
先ほど見ていた、あけすけなしゃべり方と、不躾な視線。
身につけているものや言動から見ても、どれだけ開放的な家で育ったにしろ、貴族の娘という線は薄そうだ。
であれば、成績優秀者――奨学生と言うことになる。
「そうですか……シュトラール学院は規律も不文律も多く、慣れるのに難儀されるでしょうけど、どうぞ頑張ってね」
ふわりと微笑んだフリーダがこれで会話を打ち切ろうとしていることに気付いたのだろう。ディアナは呆気にとられた顔をした。
「……あの、注意は?」
「では……ひとつだけ。上級生には、はい、以外は許されないわ」
「今もですか」
フリーダは微笑んだ。
ディアナは顎を引いて腰を落とす。
「はい、フリーダさん」
「よく出来ました。……これさえ出来れば、ある程度は上手くいきます」
いらっしゃい、とディアナを手招きしたフリーダは、彼女の襟元に触れた。先ほど走っていたせいか、リボンが歪んでいた。
「……上手くいかないことばかりです」
呟いたあと、ディアナはハッとしたように口を閉ざした。初対面のフリーダに弱音を吐いたことを恥じているのだろう。ディアナはスッと一歩身を引いた。
「お説教。これで終わりですか? 私、行ってもいいですか?」
「もちろん。――早足なら黙認されるわ」
「はい、フリーダさん」
ぺこりと、音がしそうな勢いで頭を下げると、フリーダの横を通り抜けて行く。ディアナの後ろ姿を見送ると、フリーダも早足で自分の向かう教室へと急いだ。
***
次に彼女に会ったのは、数日後の放課後だった。
ナタリエと校庭を歩いていたフリーダは、森へ走る一人の少女を見つけた。明るい髪の色に、意志の強い表情。ディアナに間違いなかった。
「ナタリエ、先に帰っていて」
「ん、付き合おうか?」
「知り合いを見つけたから」
「そっか、んじゃまたあとでね」
手を振るナタリエに手を振り替えすと、早足に森へと向かう。
フリーダが彼女の姿を捉えたのは、森の側にある湖だった。人目を避ける場所にあるため、恋人達がよく集うデートスポットとしても人気だ。
秘密の逢瀬だろうか。引き返そうとしたフリーダは、次にディアナの取った行動に呆気にとられてしまった。彼女はスカートをむんずと掴むと、なんと腰で結んだのだ。靴下をはいた足も、靴下を止めるためのリボンも、丸見えになる。
唖然としているフリーダの目の前で瞬く間に木に登ると、ディアナはペキリと音を立てて枝を折った。
フリーダの腕一本分はあろうかという長さの枝を、木の上からディアナは地面に放った。そして自らも一足で木から下りる。折った枝を拾い、湖に向けて伸ばし始める。
そこでようやく、フリーダはディアナが何をしたかったのかを知った。
湖の上に浮いているもの――教科書や布を、木の枝で掬っているのだ。
ディアナがうっかり自分で落としてしまうには、少々無理のある場所だ。
紳士淑女を育む由緒正しいシュトラール学院にも、残念なことにこういったことは皆無ではない。
「……惨いこと」
背後から近づくと、ディアナはかわいそうなほどにびくりと体を揺らした。
「えっ――あっ! この間の……えっと」
「フリーダよ。届く? 手を貸しましょうか?」
「……はい。フリーダさん」
教えたとおりに「はい」と、意固地な返事をディアナが寄越す。
フリーダは微かに笑うと、彼女の手を握った。ディアナはフリーダを支えに体を伸ばし、さらに遠くに浮いていたものまで枝で掬い上げることに成功した。
「ありがとうございました」
濡れた教科書などを草地の上に置いたディアナが、ぺこりと頭を下げる。
相変わらず、音がしそうなほどの機敏さだ。
「大したことはしていないわ」
「……えっと、前回のことも」
頭を下げたまま、言い難そうにディアナが言った。目にするもの全て敵、かのように警戒していた彼女の言葉に、フリーダは少しだけほっとする。
「少しはお役に立てていればいいのだけれど」
「怒られることは減りました」
しかし、それ以外のことは増えたのかもしれない。
あの教科書達は、もうどうにもならないだろう。濡れた教科書を手に取って広げようとしてみたが、それすら難しそうだ。
「私が去年使っていたものがあるから、お譲りするわ」
「……また、濡らしちゃいますから」
ぐっと奥歯を噛み締めて、悔しさを滲ませた声をディアナが出した。
フリーダが足を動かすと、びくりとディアナの体が再び震える。
「お譲りするわ」
「……はい、フリーダさん」
「よく出来ました」
フリーダはディアナの前にかがむと、彼女が腰で巻いていたスカートの結び目をほどく。ディアナは忘れていたのだろう。顔を真っ赤にしてその様子を見下ろしている。
パサリとスカートが広がった。足も靴下もリボンも隠れる。
口を一文字に引き結んだままのディアナの肩に、フリーダが手を回す。
そしてゆっくりと、頭と頭をぶつけた。
「大丈夫よ。あなたが頑張っていることは、見ていたらわかるわ」
肩肘を張って、誰の力も借りようとしないディアナ。
その表現の仕方は違えども、一人途方に暮れていた自分をフリーダは思い出した。
けれども、フリーダには救いの手が差し伸べられた……アイゼンという最高の人によって。
フリーダの慰めに、ディアナは拳を握りしめた。
「あんな人達に負けたりなんてしません。こんなところにだって本当は来たかったわけじゃ……あ、ごめんなさい」
慌てて謝罪するディアナの頭をフリーダが撫でる。
「いいのよ。でも、ここではきっとあなたの将来に役立つものが手に入る」
「マナーやお裁縫?」
鼻で笑うディアナから体を離すと、フリーダは真正面から彼女を見つめた。
「いいえ。折り合いの付け方と根性。そして、お友達よ」
ディアナは一度唇を震わせ、ぎゅっと噛む。
「友達なんて……無理です。みんな庶民の私と会話なんて、しようとしませんから」
上流階級と中流階級が占めるシュトラール学院において、庶民の――それも女生徒など、本当に珍しいことだった。
フリーダはその特異さに驚きつつも納得していた。彼女が誰にも打ち解けようとしない、その頑なさも察するにあまりある。
銀色の髪を纏めていたバレッタを外す。さらりとフリーダの髪が広がった。
「こういうのはお嫌い?」
シルクで出来た、白い百合のバレッタだ。
ぽかんとしているディアナの髪に、フリーダはそれをつけた。明るい髪色によく似合う。
「友情の証しよ」
下級生に厳しく当たるのは、彼女たちを導くためだ。上級生は、下級生を慈しみ、守るために存在する。
フリーダの微笑みに、眉毛をつり上げたままのディアナの瞳が、どんどんと赤く染まっていく。
堪えきれなかった涙が、瞬きの隙間から覗いて零れた。
小さな肩を震わせてボロボロと泣き出した少女を、フリーダはぎゅっと抱きしめた。




