24:交わぬ想い
落ち着かない。
二本の棒を手際よく扱い、糸を引いて、掬い、抜いて、どんどんと面積を広げてゆく。
深い森を思わせるビリジアンの毛糸は、先日「フリーダの瞳の色に似ているから」と、実家から送られてきたものだ。
ショールもブランケットもクローゼットから溢れるほどアイゼンに贈られているため、何を編もうか悩んでいた時に……いつものお礼に、彼に贈り返すことを思いついたのだ。
素人の手習いだと伝えて提案したのに、アイゼンは大げさに喜んでくれた。「せっかくなら隣で編めよ」と言われたのは、仲良しアピールに繋がるからだろう。
せっせと、冬のテラスで棒針を動かす。
フリーダのガウンの上からは、アイゼンによってぐるぐるにショールが巻き付けられ、膝の上にもブランケットを掛けられている。
そして背中には――なぜかアイゼンが防寒具のような顔をして、のしかかっていた。
背中から包み込んでいるアイゼンが、フリーダの肩に顎を置いて手元を覗き込んでいる。その至近距離に――至近距離にあることがこちら側の契約条件のくせに――フリーダは耐えきれなくなっていた。
「……そんなに見つめられると、手元が狂うわ」
「ご謙遜を、“白百合の君”。シュトラール一の腕前との噂ではありませんか」
「やめてちょうだい。本当に手元が狂うじゃない」
強張っていた顔をさらに強張らせて、フリーダは手元を凝視した。
耳にかかる吐息を感じる度に、棒がぶつかる。背中に広がるぬくもりを意識するだけで、何目まで編んだのかもわからなくなる。日頃は会話をしながらでもすいすいと動いていた手が、全く思うように動かない。
一体今までどうやって、アイゼンと接していたのか、フリーダにはさっぱり思い出せなかった。
手が触れれば火に触れたかのように払いのけそうになってしまうし、耳元で囁かれればしゃがみ込みそうになるし、腰に手を回されれば固まって立ち竦んでしまう。
その全てを隠すために、いつも以上に強力な淑女の仮面をかぶった。
恋心を隠すことは――残念なことに、長年親しんでいた。
「あったかいな」
「これだけくっついていれば」
「知ってるか。子供は体温が高いって」
「まあ。寄り添っていれば真冬も怖くないわね」
「俺もかよ」
「これだけ甘えん坊しておいて、子供じゃないと言い張るつもりだったの?」
がちごちに緊張した体に、どうか気付かないで欲しい。冬で良かったと、緊張を覆い隠してくれている防寒具たちに感謝した。
少し離れて、と言うのは不自然ではないだろうか。
今まではどうやって返していただろう。なんて言い訳を吐けばいいのだろう。
ばれていないのは大変有り難かったが、心臓への負担はすごかった。今すぐオーバーワークで、心臓が過労死を伝えてきそうだ。
「子供ならこんな風に、あんたを抱きしめられないだろ」
もう、どう返していいのかすらわからない。
契約だからだとわかっているのに、喜びそうになる。
なんてことなかったのに。男に触れる――それ以外の意味なんていらなかったのに。
彼が私に触れるのは、彼の願いからじゃない。
私が彼に触れたい気持ちで、彼が私に触れているわけじゃない。
これは取り引きなのだと、厳しく自分に言い聞かせなければならなくなるなんて。
「……アイゼン」
「どうした」
彼が動く度に、首筋の髪がこすれてくすぐったい。今まで与えられていた甘さとは違う、恐怖のような、なにかわからない高鳴りがフリーダの全身を駆け巡る。
「お願い……加減して」
堪えきれない熱のこもった声が、空気を震わせた。
耳が熱い。顔を見られていないとは言え、後ろにいるアイゼンには赤い耳が丸見えだろう。
予想外だったのか、アイゼンは息を呑む。
数拍後、ぐしゃぐしゃとフリーダの背後で髪をかきむしると、大きなため息をフリーダのうなじに吐きかけた。
「――アイゼンッ! 加減して!」
「あんたもな!」
珍しくやけっぱちなアイゼンの声。疑問は残ったがそれ以上何も言うことが出来ない。
「……はぁ」
「……はぁ」
同じ意味を込めたような、二人のため息が重なる。アイゼンはフリーダの肩に顔を埋めていて、ぴくりとも動かない。
フリーダは前を向いて、黙々と編み物を続けた。
***
――カラン
寝る前に一度、小瓶を眺めるのが癖になっている。
分厚いガラスの中に、磨き上げられた飴色の樹液が入っていた。以前、アイゼンにプレゼントされたものだ。触りすぎると壊れるかもしれないと思い、彼からの贈りものの中に紛れていた小瓶に詰めたのだ。
「フリーダ、明かり消してもいい?」
「ええ、お願い」
ブランケットを肩にかけたまま、寝台へと腰掛ける。長年ひんやりとしたシーツの冷たさに身を縮こまらせていたのに、アイゼンが寄越した「ゆたんぽ」のおかげでずっと冬の夜が快適になった。向かいのベッドに眠る、ナタリエのベッドも。
「んんん、あったかーい。私すっごい冷え性だから靴下ぐらいじゃてんで駄目で」
日々アイゼンに惹かれてゆくフリーダ。彼のツテ作りの役に立ちたいという気持ちは次第に強くなり、すでに見過ごせなくなっていた。
しかし、契約を結んだときに言ったように、友人を巻き込みたくはない――そう思っていたのに、フリーダが初めてゆたんぽを使った時のナタリエの反応を見て決意した。意固地になっても、義理立てても、ナタリエの冷え性は治らない。
アイゼンにもう一つ用立ててもらったゆたんぽは今、上機嫌なナタリエに抱きしめられている。
「本当めっちゃ愛してる……ゆたんぽと結婚したい……」
「よしてちょうだい。私、あなたとゆたんぽの結婚式で仲人を引き受けたくないわよ」
「えっ、出てくれるの?」
心底驚いた声色でナタリエが問い返してきた。
それはあまりにも、きっとあまりにも当然の問いだった。
卒業してしまえば、フリーダとナタリエを繋ぐ友情よりもずっと濃い、身分差が待ち構えている。貴族の娘と、弁護士の娘。今のように肩を寄せて笑い合うような気安い関係を続けるのは難しいことだろう。
シュトラール学院が、騎士や聖職者、弁護士や商人といった中流階級の子女を受け入れ始めてすでに十数年――社交界でも、彼らの活躍が目立ち始めているが、未だ歴然とした格差は消えない。
「お呼ばれするつもりでいたわ」
「呼ぶ呼ぶ! 呼んじゃう! じゃあ絶対、フリーダに情けなくならない旦那捕まえる!」
それはなんだか少し、違うのではないだろうか。
フリーダはそう思いつつもベッドを抜け出すと、乱れたナタリエの掛け布団をかけ直してやる。
「……フリーダはさ」
ナタリエが掛け布団を口元まで覆って、上目遣いで見てくる。
「なあに」
「……ちゃんとバーレが好きだよね」
問いかけではなく、確認だった。
月明かりが差し込むだけの薄暗い室内で、フリーダは曖昧な笑みを一つ浮かべる。
「将来とか、どうするの?」
「心配しないで」
思っていたよりもずっと、冷たく響いてフリーダ自身が驚いた。冷えた空気に留まることもなく、言葉は沈黙に沈んでいく。
将来などないのだ。フリーダとアイゼンには。
――当然。卒業までの契約だ。
貴族と商人を隔てる身分差よりも、大きな障害がある。
そう、二人には身分差を乗り越えるための「愛」がないのだ。
学院での恋は、卒業するまで。
あまりにも自然に受け入れていた以前の自分は、無知だからこそ強かったのだ。あれほど真っ直ぐに、大人の強いた世界で生きていけるほど。
掴んでいたブランケットが視界の隅に入り、心に空風が吹く。
契約を望んでいるくせに、契約が辛くも感じる。
手にしているこのブランケットも全て、契約の証。彼がフリーダの身を思って贈ったものでは無い。
「私、最初はさ。フリーダが選んだってわかってても、バーレのことあんまり信頼できなかったけど……最近は、けっこう好きだな。フリーダのこと大切にしてくれてるの、よくわかる」
「そうね。アイゼンは、優しい人よ」
契約だから。
恋人の真似をする、フリーダに触れる、そういう契約だから。
彼の優しさがそれだけだったら、きっと……フリーダはこんなに彼を好きになることはなかった。
アイゼンは一度たりともフリーダを見下さなかった。女のくせにと、こんな悪癖を持っているくせにと、蔑むこともなかった。
彼はフリーダの精一杯を認め、そして――契約という縁を大事にして、フリーダを見守り、支えてくれた。
どうして、好きにならずにいられただろう。
体は心よりもずっと素直に触れ合いを受け入れる――もうずっと、最初から。
「フリーダ」
「なあに」
「綺麗になったね」
フリーダは笑みを深くした。
「だいすき」
せっかくあたためていた布団から抜け出して、ナタリエがフリーダを抱きしめた。堪えきれずに、フリーダの体が震える。
そして親友の前で初めて、フリーダは涙に濡れた吐息を吐き出した。




