23:鉱石でない宝石
兄の代わりだった。
唯一のものから離れるため、彼を側においていたはずだったのに……いつしかフリーダにとって、彼が唯一にすげかわってしまっていた。
フリーダは、兄への気持ちを抑えるために彼を利用していた。
なのに、今。
彼の側にいるために……彼に触れるために、兄への気持ちを利用しようとしている。
「滑るぞ」
ひょいと腕を掴まれる。フリーダの体の右半分が、地面から浮いた。
足下を見ると、真っ白に染まっている。芝の上に積もった雪だ。
教室を移動するために一階の渡り廊下をまっすぐに歩いていたつもりが、いつの間にか随分と廊下から逸れてしまっていたようだ。
教科書を胸に抱え唖然としたまま、フリーダは首を捻った。胸がドキドキと高鳴る。フリーダが触れてほしい相手は、もうこの学院に――いやきっと、この世界にただ一人しかいない。
「アイゼン……」
「またぼうとしてたのか」
いたずらっ子を責めるようでいて、いたずらをしかける子供のような笑みをアイゼンが浮かべる。
「ちょっと! もう少し優しく止めてあげてよ!」
「へいへい」
慌てるナタリエに適当に相槌を打ったアイゼンは、その対応の雑さとは真反対なほど慎重に、フリーダを地面に下ろした。
「ナタリエ、お邪魔虫になりたくないでしょ。教室まで送るよ」
「送ってもらわなくてもけっこうです。フリーダ、先に行ってるわね」
アイゼンと共にいたヨシュカが、ナタリエを伴って歩き始める。フリーダは半ば放心したまま、ナタリエに「ええ」と返事をした。
二人を見送ったアイゼンが、白い肌に朱がさしたフリーダの頬を手の甲でさする。フリーダの体が、びくりと大きく跳ねた。
しまったと思ったときには遅かった。勇気を振り絞り、そっとアイゼンを見上げると、アイゼンは切れ長の目を大きく見開いてフリーダを見つめていた。
「……どうした」
なんでもない、そういうことは簡単だ。だけどきっとアイゼンは騙されてはくれないだろう。
「――手が冷たかったの。冷え性なのね」
笑みを浮かべられた自分に満点をあげたかった。アイゼンは幾分か訝しんだようだが、反対の手で自身の手に触れると納得してくれたようだった。
「悪いな。あんたの頬も随分冷たい」
そしてフリーダの頬をあたためるためか、アイゼンが両手で包み込む。
優しく、宝物のように。
「あんたの頬、桃みたいだ」
フリーダはそれどころではないと言うのに、アイゼンがいつもと変わらぬ口調で話しかけてくる。うっとりするような色気を纏った声で。
これまでみたいに、突き抜けるような強い快楽はない。
――その代わり、今までこんなこと何度もされてきたというのに……ただ頬を撫でられただけで、何故か甘く広がる痺れと、身を焼き尽くしそうな羞恥が体を襲った。
フリーダは言葉を返せずに黙り込んでしまった。アイゼンの両手に埋もれているため、幸いにこの赤らんだ顔を見られることはないだろう。
こんな触れ合いを普通にしてきた自分が、これまでいかにまともな精神状態でなかったのか、フリーダはよく理解した。
偽物の恋人だというのに、自覚していた以上にフリーダはアイゼンに甘えていたようだった。
――フリーダは彼との契約を続けるため、自分の恋心を隠すことに決めた。
契約内容が変更になった時点で、申告する義務があることぐらいは、いかに世間知らずのフリーダといえどもわかっていた。
けれどフリーダは隠すことに決めたのだ。自らの症状も、アイゼンへの気持ちも――当初の予定通り、卒業まで。
「どうした。なんかあったか? ――悩み事か?」
優しい声と指がフリーダを撫でる。
今すぐに顔を上げて、彼の顔を見たかった。
けれどそうしてしまえば最後、熱を灯した瞳は全てを物語ってしまうだろう。
自分が今どんな顔をしているのか、鏡を見なくてもわかっていた。
アイゼンのことでいっぱいになった、恋に溺れた女の顔をしていると。
「もしそんな風に見えるなら、悩みの原因はアイゼンでしょうね」
「へえ?」
「あなたがあまりに素敵すぎるから」
「そりゃ嬉しいな」
頬に当てていた手でアイゼンはフリーダの髪を掬うと、唇を寄せた。
社交の場で交わす当たり前の世辞のように、臆せずに言えただろうか。微塵だって彼への好意は滲んでいなかっただろうか。考え込むフリーダに、アイゼンは「そうだ」と声をかける。
「手出しな」
フリーダを抱きしめたまま、アイゼンはごそごそとガウンのポケットを探った。
「どうかして?」
不意打ちでなければ、彼に触れられても大丈夫なはずだ。
フリーダは剣を握る騎士のように神妙な顔をして、片手を差し出した。その細い手首を大きなアイゼンの手のひらが掴み、手のひらを上に向けさせる。それだけで、フリーダの心臓は馬車が転がるような音を奏でる。
「やる」
アイゼンが握っていたものを、フリーダの手のひらにそっと置いた。彼の手が離れ、自分の手のひらの中を見たフリーダは顔をほころばせた。
「……まぁ、琥珀?」
「の、赤ん坊みたいなもんだな」
「そう。綺麗ね」
手の中にころんと転がっていたのは、樹液が固まったものだった。指にとって、そっと空に翳す。
フリーダの知る琥珀によく似ているが、それよりもずっと赤みが強い。プツプツと小さな気泡が入り込み、輝かんばかりに光を屈折させている。雫を思わせる形に綺麗に研磨されたそれは紅茶色で、陽に透けたアイゼンの髪の色によく似ている。
「これも商品なの?」
「……いや、これは俺が拾ってきた」
屋外授業で森を歩いていたときに、樹皮から染み出ていたのを見つけたのだとアイゼンが続けた。
「男は銀細工の授業があるから、工具借りて少し磨いてきた。あんまり乱暴に触ると崩れるぞ」
フリーダは心に湧き上がってくる喜びを堪えるために、両手で樹液を包み込む。
「女はこういうもん好きだろ」
なぜか言い訳のように口早に言ったアイゼンの胸に、とんと寄りそう。
「……ありがとう……大事にするわ」
それ以上口を開いていれば、不必要な言葉が漏れそうだった。
アイゼンの胸に、ぐりぐりと額を押しつける。吐息のような笑い声が聞こえたあと、アイゼンがぽんぽんとフリーダの頭を撫でた。
宝石なのに、唯一鉱石ではない琥珀のなりかけ。
少し手加減を間違えれば崩れてしまう、まがいものの宝石。
はりぼての愛を本物だと演じている、二人の関係によく似ている。
フリーダは瞳を閉じた。
大事に……大事にしようと。そう思って。




