22:その名は、
「どうしたのフリーダ、明かりもつけないで」
ランタンに灯がともる。自室にナタリエが帰ってきたのだ。
「おかえり。どうだった? お兄さんのお嫁さん綺麗だった? あ、まだ婚約者か……あ、そうだ、ねえ。お兄さんと仲直りできた?」
部屋に入ってきたナタリエが、荷物を片付けながら矢継ぎ早にフリーダに質問を投げる。
その言葉のどれにも返事をしなかったフリーダを不審に思ったのか、ナタリエが振り返った。
「フリーダ?」
ベッドの上で呆然としていたフリーダは、ようやくナタリエを見た。
いつもは丁寧に梳いてある銀色の髪もくしゃくしゃで、ネグリジェの裾も乱れていた。けれど今はそのどれもが、気にならない。
ナタリエがびっくりした顔をして近づいてくる。ベッドの上には、フリーダの脱いだ服が散乱している。今までにない状況に、ナタリエが戸惑いを浮かべる。
「何かあったの?」
ナタリエがフリーダを覗き込む。ガラス玉のように生気の無い瞳が、ナタリエを見つめ返した。
フリーダは眉を八の字に下げると、まだ着替えも済ませていないナタリエに縋るように抱きついた。
「わっ、どったのフリーダ。本当に……アイゼンと喧嘩でもしちゃった? ……は! もももしかして、なんかされたんじゃないでしょうね!?」
「違うわ。私は大丈夫よ」
ふるふるふる、白銀の髪を靡かせてフリーダが首を横に振る。
「大丈夫って……」
「……元に、戻っただけ」
呆然とした声は、完全に芯を失ってしまっている。
「そう。仲直りできたんだ。よかったね」
フリーダの今の状態をとても大丈夫だとは思えないが、その部分には素直に安堵の意思を返した。フリーダは、ぎゅうと強くナタリエを抱きしめる。
「……そう、元に戻っただけ」
呟く言葉がナタリエの服に染みこんでいく。
フリーダを長年苦しめていた悪癖が、消え去っていた。
信じられなかった。
あれほど悩み、苦しみ、一生の付き合いを覚悟をしていた症状。
それが消える日が来るなんて、フリーダは思ってもいなかった。
もう男性に怯える必要はない。もう夢に怯える必要はない。もう夜明けを一人で怯える必要はない。もう自身を蔑む必要はない。もう自分を嫌う必要もない。
だというのに、フリーダは心の底から歓迎出来ていない自分を知っていた。
もしあの症状が消え去ることがあれば、それは人生で最良の日になるはずではないか。そうあるべきだ。そうでないなんて、そんなことありえない。
いいこと尽くめであるべきなのに、フリーダは何故か、強く戸惑いを感じていた。悪癖といえども、長年連れ添ったからだろうか。喜びよりも、胸にぽっかりと広がった穴が気になって、無邪気に喜べないでいる。
シオンに手を取られてから皆と共に寮に戻ると、フリーダはゆっくりする間もなく教師達に帰還の挨拶をしにいった。そして、不自然にならないようにこっそりと、彼らの体に触れた。
なにも、
なにも、感じなかった。
シオン同様、フリーダの体は、他の男性にはなんの反応も示さなかった。
アイゼンと契約を交わしてから、男性に触れたくて仕方が無くなる発作は収まっていた。
しかし、それでも体を触れあわせればお馴染みの感覚がすぐに体を突いた。焼き尽くすような、刺すような、制御のしようもない強い快楽だ。
それは誠卑しいことながら、父や兄にも関係なく訪れるものだった。
ハッと思い出す。
今朝、父に抱擁を受けた時の違和感は、これだったのだ。
あの時も何も感じなかった。男性に抱きしめられたのに、フリーダに快感が迫ってくることはなかった。この四年間、当たり前に怯え続けてきた感情だったのに。
自分の中でくすぶっていた初恋を昇華したからかもしれない。
思い浮かぶ可能性は、それだけだった。
ただ一つの結論に行き当たったフリーダは、それからナタリエが帰って来るまで、なにをするでもなくぼうと過ごしていた。脱いだ制服を片付ける気にもなれないほどに。
喜べばいいのだ。誇ればいいのだ。
忌むべき悪癖に別れを告げ、築き上げた自身の功績を胸に抱いて暮らせばいい。偽物だった淑女フリーダ・クレヴィングは、今度こそ完璧な淑女として皆の前に立てばいい。
たった、一人で。
恐ろしくなって、身を縮めてしまいたくなる。
フリーダの胸に突き刺すような痛みが襲った。
***
どうしたらいいのだろう。
校庭のベンチで、フリーダは冬の風に吹かれていた。
フリーダは入学して以来はじめてといっていいほど、心細さを感じていた。途方に暮れていたと言ってもいい。
これまでのフリーダの学院生活には、明確な理由があった。
はじめは、兄のいる環境から逃げること。
次は、この症状のせいで人に迷惑をかけないように、男子生徒から距離を置くこと。
その次は、アイゼンと協定関係を結ぶことでそれぞれの利を追うこと。
しかしフリーダの悪癖は消えた。誰に触っても、あんな風に腰が砕けそうになる快楽は襲ってこない。男子生徒を見て、発作を起こすこともなくなっているのだろう。
ということは、フリーダはすでに、アイゼンとの契約を続行する必要性がないのだ。
それはつまり――フリーダとアイゼンの契約終了を告げていた。
「……はぁ」
何度目かわからないため息をこぼす。頭が痛くなりそうだった。繰り返し、寄せてはかえす波のように同じことばかりを考えている。そしてその結論は、未だ出ない。
告げるべきなのだ。アイゼンに、症状が消えたと。
きっと彼は喜んでくれるだろう。それぐらいの信頼関係は築いてきた。フリーダもアイゼンも契約から解き放たれ、今度は友人としての付き合いが始まるかもしれない。
いや、すでにフリーダの信頼を得たという評価を手にしたアイゼンは、フリーダのことなど見向かなくなるかもしれない。
「……はぁ」
「どうした。ため息ばかりついて」
いつの間にか曲がってしまっていた背筋を伸ばすと、フリーダは後ろを振り返った。ガウンのポケットに両手を突っ込んだアイゼンが「よう」と言う。
「……アイゼン」
「俺を待ってた、にしちゃあ妙な顔だな。ぼうっとしてたのか」
ごく自然な動作でフリーダの隣に腰掛けると、アイゼンは鼻が触れそうなほど顔を近づけてきた。一瞬にして息を止める。彼の真っ黒い瞳に、目を見開いた自分が写っていた。
頬に当てられるのかと思った手は、そのまま額へと伸びる。
「熱はねえな……どうした、ぼけっとして」
心配そうに眉根を寄せるアイゼンの前で、フリーダは完全に固まってしまっていた。
いつも通りの触れ合いのはずだ。いやむしろ、いつもこれ以上に過激な触れ合いをしていたはずだ。
なのに、この触れる手が「男の中の一人」ではなく、「アイゼン」だと言うだけで――
「……!」
フリーダが顔を真っ赤に染め上げる。瞳はきっと、極限まで開いていることだろう。額に触れたアイゼンの手から、じんわりとした温かさが広がっていく。
体中の血が沸きそうなほど体が熱い。くらくらと目眩がする。奇妙なほど落ち着かない。
自分の今の状況がわからずに、涙さえ滲みそうなほど潤んだ瞳で瞬きを繰り返した。
「……」
顔が火照り、今にも泣き出してしまいそうな情けない顔を浮かべるフリーダを、アイゼンは大慌てでガウンの中に覆い隠した。きっと人様に見せられないような、だらしのない顔をしているのだろう。
アイゼンが苦々しい表情を浮かべる。しかし、アイゼンに抱きしめられていたフリーダは気付かない。
一瞬にして表情を取り繕うと、アイゼンは口角を上げた。
「顔が赤いのは、風邪や、熱のせいじゃねえな?」
わかりきったことを尋ねるように、アイゼンがフリーダに確認を取る。フリーダは小刻みにこくこくと頷いた。
「まあ、あんたの顔が赤いのは今に限ったことじゃないがな」
小さく喉で笑いながら、アイゼンはフリーダを抱きしめた。アイゼンの匂いがするガウンの中に、すっぽりと収まる。
「いつの間に我慢していた。昨日あまり触れなかったからか? 学院に帰ってきて、少しごたついてたからな」
顔が赤い原因を、男に触れるのを我慢していたからだと思われたようだ。見当違いな推測だが、フリーダはあえて何も言わずに聞いていた。今、舌戦で彼に勝てる自信はない。
「ああ、そうだ。昨日は大丈夫だったか」
「昨日?」
オウム返しにすれば、アイゼンは少しばかり言い難そうに口を開いた。
「――シオンに触れられてただろ」
フリーダは咄嗟に反応が出来ずに、体を固まらせてしまった。
もしも、何も感じなかったなんてバレてしまったら――
反射的にフリーダはアイゼンに抱きついた。
「素敵だったわ。身も心もとろけそうなほど」
甘さを意識して、できる限り幸せそうな声を出す。
昨日のことを思い出していると思われるように。
「へぇ」
瞬間、冷静な声が頭上から振ってきた。
冷や汗が伝う背中をアイゼンが撫でる。嘘がバレたのかと、フリーダはぎゅっと目を閉じた。
そんなフリーダの気も知らず、アイゼンはフリーダの手を握る。昨日シオンが取った手と同じ手だ。
「どうかし……」
フリーダが紡ぎ終える前に、アイゼンがそっと唇を寄せた。
湿った音が鳴って、離れる。
その光景を見つめることしかできなかったフリーダの瞳を、アイゼンの視線が真っ直ぐに貫く。
「とろけたければ俺を呼べばいい――卒業するまで、俺はあんたのもんなんだから」
呆然としたフリーダは、彼の腕の中で小さく頷いた。
卒倒するようなアイゼンの口説き文句も、フリーダの心をすり抜けてゆく。
フリーダは気づいてしまった。
何を空虚に感じていたのか、何を恐れていたのか……契約を終了することを、なぜあれほど戸惑っていたのか。
――男に触れる権利をやるよ。あんたが望むだけ、俺が抱きしめてやる。
肌が粟立つ。心が震える。胸が震える。
今までどうやって、彼の側で平然としていたのか、わからない。
――女なら、辛い思いもしただろう……これまでよく一人で頑張ったな。
顔を真っ赤に染め上げたフリーダは、ただ彼の胸を見つめていた。
見開かれた瞳に膜が張り、潤んだ拍子に目尻が濡れる。
シオンに、父に、教師に――誰に触れても、何も感じなかった。
感じるのは……彼に触れたときだけ。
それが何を意味するのか、フリーダは気づいてしまった。
――だがあんたは、誰よりも真摯だった。
――恋人に優しくするのに、理由が必要か?
――我が儘なお姫様だ。
――兄貴を好きだったあんたが、変わるんだ。夜明けと共に。
――大丈夫だ。
溢れてくるのは涙ではなく、今までアイゼンにもらった言葉だった。そのどれもがフリーダの心を優しく奮い立て、慰め続けた。彼にもらった言葉を、何度も反芻した。何度も、彼に助けられた思いがした。
目の前には、アイゼンがいる。彼に触れたくて、もっと触れて欲しくて仕方が無かった。
胸を支配する荒れ狂う感情に身を任せ、フリーダの手がアイゼンの背に回る。
ぎゅっと抱きしめそうになったときに、フリーダは、凍り付いた。
――これは取り引きだ。面倒な感情は互いに要らない。
腕の力が抜けた。
絶望が、胸を締め付ける。
彼に、恋は必要ない。
またしても、私の恋は……必要ない。
怖かった。苦しかった。悲しかった。
何よりも忌み続けた悪癖が消え去る喜びをかき消すほどに――
ただただ、目の前で偽りの恋人を演じる彼が、恋しかった。




