20:歓迎せらるる
「アイゼン! シオン様。おはようございます」
当主の娘の成り立ちで、フリーダは朝早くから家族と共に招待客らを見送っていた。シオンのパートナーの令嬢も、すでにクレヴィング邸を出た後だ。
シオンとアイゼンが客室から出てきたのは昼前で、丁度朝の団体を見送り一段落ついた頃だった。
「よく眠られましたか?」
「ああ。枕カバーからいい匂いがしたおかげか、気持ちのいい朝だ」
ゆったりとしたシオンの動作は、フリーダにも余裕を分けてくれる。
王族と、学院外で話す滅多にない機会に萎縮せずにすむのも、彼のこういった気遣いのおかげだった。
「まあ。庭師が聞けば喜びます。我が家の庭で採れたラベンダーをポプリにして枕元に……」
「お気に召しましたならお包みしましょう。冬を越した我が領地のラベンダー園はそれは見事でして、殿下も是非一度――」
くすくすと笑うフリーダの後ろから、厩の方へ行っていたはずの父が、いつの間にか忍び寄っていた。
今日は学友として招待しているわけではないので、フリーダが止めに入るのも憚られる。シオンに対し多少の申し訳なさは感じつつも、しばらく父の好きにさせることにした。
「おはよう」
「おはよう。レディ・フリーダ」
シオンの後ろで、まるで付き人のように立っているアイゼンにフリーダが駆け寄る。
退屈さはおくびにも出さずに、にこりと笑う。文句なしの好青年だ。
フリーダの家族の前で紡がれる彼の声は、いつもよりもワントーン高く、どこか甘さに満ちている。
彼の寒々しい首元に気づいたフリーダが、自身が羽織っていたショールを脱ぐ。
フリーダが手招きすると、家族の目を気にしてか多少戸惑ったものの、フリーダの好きにさせるために身をかがめてくれた。
「……昨日はありがとう」
アイゼンにしか聞こえないほどの声量でそういえば、彼は途端にいつもの顔つきに戻る。
「俺は横にいただけだ」
家族にバレないよう、こっそりと耳打ちして本心を伝えてくれるアイゼンの首にショールをくるくると巻き付ける。
「アイゼンがいなければ、私はきっと今日ここにいなかった」
お礼くらい言わせて。そうつぶやくと、今にも抱きつきたい思いを抑えて、アイゼンの腕にそっと額を押しつける。甘いしびれが、触れた箇所からじんわりと広がる。
「頑張ったのはあんただけどな。あんたの支えになってたなら、それでいい」
アイゼンのことを言っているのに、気がつくとフリーダのことになってしまう。フリーダはアイゼンの気遣いを拒絶しないように気をつけながら頷いた。
「ええ、わかったわ――でも、アイゼン。あなたにも何かあれば、必ず言ってちょうだい。私で力になれることなら、なんでも協力するわ」
「なんでも?」
「……なんでも」
「部屋に戻って一筆書いてこよう。今回も拇印でいい」
「やめて。またナタリエに怒られちゃう」
わざとのように客室に戻ろうとするアイゼンのコートを、フリーダはぎゅっと掴んで引き留める。
「……なあフリーダ」
振り返ったアイゼンが、フリーダを見下ろした。
「どうかして?」
フリーダは無意識に柔らかい笑みを向けた。もう、何度アイゼンに向けたかわからないような自然な笑みを。
「……なんでもいいなら」
言いにくそうに、アイゼンが言葉を区切って顔をしかめる。
どんなことを言い出すのかと、フリーダは心なしかわくわくとして待っていた。アイゼンに無理難題を言われるのかと思うと、ほんの少しだけ――彼に甘えられているような気がして、嬉しかったのだ。
「……あんたを大事にしてもいいか」
フリーダは瞬きすると、ふふと笑った。
「今更じゃなくて? 勿論よ」
満面の笑みを浮かべたフリーダに、アイゼンが目を見張る。そして感極まったかのように大げさに、アイゼンがぎゅっとフリーダを抱きしめた。胸が震えるような歓喜が流れ込んでくる快感に浸りつつ、フリーダはそっとアイゼンの胸に頬を寄せる。
「あなたが必要だと思うことを、必要なだけ。あなたは好きなだけ、私に価値を求めていい契約よ」
フリーダが夢見心地で囁くと、何故かアイゼンの腕の力が抜けていった。
不思議に思って、フリーダはアイゼンの胸から彼を見上げる。
「アイゼン?」
「……いや、わかっていたことだ。悪い」
アイゼンが苦笑を浮かべて見下ろしていた。
珍しい、笑みだった。
***
学院までは、シオンが送ってくれることになった。慌てて帰りの支度を済ませたフリーダは、アイゼンと一緒に王宮の馬車に乗り込むこととなった。
すでに挨拶を済ませたシオンは、馬車の中でくつろいでいる。
馬車を見送る家族一人ずつに、フリーダは抱擁を交わした。
「ヴァーツェルさん。次にお会いできる日を、楽しみにしております」
「ありがとうございます。フリーダさんも、学院の冬を楽しんできてちょうだい」
義理の姉になるといっても、これから半年近くは準備に追われるだろう。昨夜同様、大した動揺もなく、フリーダは彼女と向き合えていた。
「お母様、ドレスの手入れをどうかお願いします」
「任せておきなさい」
抱擁と共にドレスを託す。
フリーダが現在持ちうる全てのものよりも大切なドレスだ。母に預ければ間違いは無い。
母の腕から逃れ、気合いを入れ直すとヘクトールに向き合う。
朝から何度も顔を合わせているが、体を触れあわせるのは昨夜ぶりだ。フリーダにとっての抱擁は、ただの抱擁ではない。
「兄様……手紙、書くから」
緊張のしすぎで、よくわからなかった。
多少のぎこちなさは残ったが、許容の範囲だろう。兄妹の親しい姿を見て、母が感極まってハンカチで目尻を押さえている。
「次こそは、誰にも呼ばれないでくれよ」
これまで何度も忙しいだの、誰かに呼ばれただのといって、手紙に綴る兄への言葉を避けていたことはさすがに知られていたらしい。さっと頬を赤らめて頷くと、最後に父に駆け寄った。
「お父様!」
「全くお前は、いつまでたってもお転婆だ。夏休みを楽しみにしているぞ」
「はい。行って参ります」
父には多少、幼さを強調した対応を心がけている。完璧な淑女を心がけるフリーダにとって、完璧な愛され娘を演じるくらいわけはない。
両手を広げていた父の胸に飛び込んだフリーダは、「あら?」と声を上げた。
「どうしたフリーダ。忘れ物か?」
父にそっと離され、顔を覗き込まれる。
「……? なんだったかしら。忘れてしまいました」
自身に驚きつつも返事をすると、父は明瞭な声で笑った。
「全く、フリーダはいつまでたってもしようの無い娘だ」
不本意ながらも父のやに下がった顔を見つめていると、ヘクトールがアイゼンに挨拶をしていた。
「お世話になりました」
「アイゼン君。またおいで」
「いいや。またはない」
柔らかい兄の別れの言葉に被せるように、フリーダを胸に抱いている父が言った。
「いいえ」
ヘクトールは、一際強い口調で父の言葉を否定する。
別れる者への社交辞令ぐらい聞き流せないのだろうかと、内心呆れていたフリーダにも伝えるかのように。
「また、だ」
今度は、真正面に立つアイゼンに向けて。
彼の胸に響かせるように。
「私は、君を歓迎しよう」
「……へ、ヘクトール! 何を言うとるか!」
ヘクトールは笑みを浮かべただけで、怒れる父に何も返事をしなかった。
抱いていたフリーダを離してまで兄に憤慨する父の癇癪に巻き込まれぬよう、母がさっさとフリーダ達を馬車に乗せる。
「心配しないで。一人娘がすっかり綺麗になって帰ってきたから、さみしくなってるだけなの……アイゼン君。来てくれてありがとう。またいらっしゃい」
「お前まで何を言ってる!」
「さっ、出てちょうだい!」
「こら! 待ちなさい!」
当主夫人の号令により、馬車が動き出す。
ガラガラガラ――と車輪の回る音が、石畳の玄関先に響く。
フリーダは窓から身を乗り出すと、再び夏まで別れる家族に向け、大きく手を振った。




