02:破廉恥な褒美
――レーヴェ国の貴族名鑑に名を連ねるには、シュトラール学院を卒業する必要がある。
とまで言われる名門シュトラール学院は、十三歳から十八歳までの生徒が通う全寮制の学校である。
王侯貴族のみならず、学院の規律を守るのであれば地域社会に奉仕する名士――つまり騎士や聖職者の子女、また市井の者も成績優秀に限り入学可能とされている。
広大な敷地を囲う鉄柵に、唯一備え付けられている門扉。
その重い扉を潜った生徒は、身分という笠を脱ぎ、制服という規律を纏う。
男子は理知と勇気と、あらゆる強さを。
女子は慈しみの心と気品と、たゆまぬ美しさを。
全生徒はこの学院で、曇り一つないほど完璧に磨き上げられる。
紳士、淑女は一朝一夕にしてならず――を信条としたシュトラール学院で、フリーダ・クレヴィングはまさにその鑑と言える女生徒であった。
品行方正、清廉潔白、温和篤厚、眉目秀麗――およそ多くの好意的な四文字熟語は彼女のために誂えられたのではないかというほど、非の打ち所がない。
多くの教師が彼女の名前を笑顔と共に呼び、多くの生徒が彼女を慕った。
評判は信頼と力を集めたが……ひとつだけ。
彼女は人に言えぬ悩みを、いいや、欠点と言ってもいいほどの弱点を抱えていた。
完璧な淑女と名高い、フリーダ・クレヴィングの最大にして唯一の弱点、それは……
「心から謝罪致します……」
顔の下半分を真っ赤に、上半分を真っ青に染めながら、フリーダは項垂れていた。
しかし、その両手は未だアイゼンの腰に巻き付いたまま。それどころか、謝罪の言葉とは裏腹に、淑女らしからぬ手つきで彼の体を弄っている。
アイゼンその端正な顔立ちに何の印象も覗かせない無表情で、フリーダを見下ろしていた。
「ずっと我慢を続けていたせいか、抑えがきかなくて……いえ、弁解など、恥の上塗りですね……」
最後の方はほとんど掠れて、音にならなかった。
フリーダは、幼少期より深刻な悩みを抱えている。
――彼女は定期的に、男性に触れたくて触れたくて仕方が無くなるのだ。
人目もはばからず、男ならば誰にでも……なんという痴態だろう。
淑女を志す貴族の娘として生まれたフリーダにとって――
いや、どんな女性に生まれたとしても、それは苦痛と困難を極める悪癖だった。
体に睡眠が必要なように、肺が空気を求めるように――フリーダにとって限りなく原始的な欲求として、幼い頃から抱えていた当たり前の情動。
しかし、人一倍淑女たらしめんとするフリーダにとって、それは何よりも抗わなくてはならない欲望でもあった。
予測なく訪れるその情熱を感じる度に、気が触れそうになるほどの強い衝動と戦う。
胸から張り裂けてしまいそうなほど、人肌が――それも男の肌が恋しい。
フリーダはその渇望を抱くたびに、苦しくて、欲しくて……情けなくてたまらなくなるのだ。
「はしたない女だと蔑みになって。淑女を志しながら、このような痴態を演じるなど……」
それは、心の底から恥じているのに、思う通りにいかない我が身への苦しさを表したかのような、低くしゃがれた声だった。
とても聞けたものではなかっただろうが、身を寄せ合っていたアイゼンはどうにか聞き取ってくれていたらしい。
彼は柳眉をくいっと器用に持ち上げた。彼の整った顔立ちに表情がのる。蝦茶色の前髪が、彼の目にかかった。
「てことは、具合を悪くしたとか……乱暴をされたわけじゃないんだな?」
アイゼンの言葉に驚いてフリーダは固まった。
軽蔑されても仕方のない頭のおかしな女に向けるには、あまりにも適切でないだろう。
それにどちらかと言えば、「乱暴」をしているのはフリーダである。
それも、アイゼンに。
「どうなんだ?」
「……そうです。私は、なんとも……」
呆然としつつ無事を主張すれば、「ならよかった」とアイゼンが吐息をこぼす。
「んで、そのけったいな症状は、具体的にどうしたら楽になるんだ?」
入学以来四年間ひた隠しにしていた己の罪をあまりにも軽く扱われ、フリーダは衝撃を受ける。
「ふ、ふしだらな行為を……」
半ば呆然としていたフリーダは素直に口を開いた。
「なんだ。誘ってたのか。そりゃ気が利かなくてすまなかった」
アイゼンは自らのタイに指をかける。その仕草が何にあたるのかさえ分からないフリーダは、首を傾げる。
「誘う……とは?」
「セックスするまで落ち着かないんだろ?」
「セックス?」
「可憐なお耳にはスラングは馴染みがないか。性交渉のことだ」
「せっ――!」
ふしだらな言葉を放った自分の口を一度強く閉じると、フリーダは慌てて首を横に振った。
「そそそそのような、ち、違います、断じて、断じてっ!」
抱き付いたまま、アイゼンの制服を握りしめてフリーダが抗議する。
「今はこのようにご面倒をお掛けしてますが、以前は家の者の肩に触れたりする程度で収まっていたのですっ……それもほんの短時間で……っ」
今回は衝動を抑えているところに予想外に接近され、心の箍が外れてしまったが――日頃のフリーダは忍耐強く、礼節をわきまえる。だからこそ、弁解する度に顔から火を噴きそうだった。
こんなことを口にしなければならない状況にも、己の体にも。
「じゃあ辛抱しすぎたんだな」
ネクタイから潔く手を離したアイゼンが喉で笑う。
何故か見ていられなくて、フリーダは顔を落とした。
「まだ収まんないんだろ? 抱きしめてやろうか?」
ん? と手を広げながら言われて、フリーダは呆気に取られる。
「おおおお待ちになって。そのような破廉恥なこと……!」
「ほう」
アイゼンは自分の腰にひしりと抱き付いている女を見下ろした。
「私が破廉恥なことは重々に承知しております。だからこそ、そのようなことを強要するわけには……」
初対面ではないとはいえ、ほぼ付き合いのなかった男性に許すには――いや、甘えるには、度を逸している。
目を真っ赤に潤ませて、ふるふると小さく首を振ったフリーダが言い終える前に、アイゼンは腰に抱き付く女の体をぎゅっと抱き締めた。
「きゃああああっ」
それは悲鳴と言うには、甘い香りに満ちていた。
快楽を強引に体の中に押し込まれたような、突き抜けるような良さだった。
足元から頭にかけて、ぞわわっと何かが駆け上がる。堪らずフリーダは体を小刻みに震わせた。足に力が入らずに、かくんと腰が抜ける。
「へぇ」
倒れ込むフリーダの腰を抱えながら、アイゼンがフリーダの様子をのぞき込む。
その表情は、お世辞にも親切なそれではなかった。
まるで、商品を品定めするような目つき――噂に違わぬ、悪魔の商人そのままの目つきで、アイゼンはフリーダを眺めた。
フリーダの意思とは反する形で接触しているというのに、フリーダはアイゼンから離れることが出来ずにいる。つまりは、自分の悪癖を否定することができない。
砂漠で得た水のように、アイゼンの温もりがフリーダを癒やしていく。長い間の渇望を潤すぬくもりに、フリーダは必死にしがみ付いていた。
「フリーダ・クレヴィング嬢……フリーダ」
石鹸の匂いがするアイゼンの制服に頬をおしあてていたフリーダの顎を、彼が指で掬った。
「取り引きする気はあるか?」