19:初恋
「お勤め、ご苦労だったな」
クレヴィング邸の二階にある客室の扉を開けたのはシオンだった。
行儀悪くも、燕尾服を脱ぎ、ベストのボタンを外しただだけの姿でベッドの上に寝転がっていたアイゼンは、慌てて起こした体を再び沈めた。
「そうか、シオンだったな。付き人はどうした」
「そもそもトレッチェル家の寄越した者だ。あちらに返すのが筋だろう」
規律があるとは言え、学院の中は基本的には自由だ。始終付き人に手を焼かれ、口を出される生活にはすぐには戻れないだろう。面倒な付き人を追いやり、羽を伸ばしたいのも無理は無い。
「一晩共に過ごすのだ。気心の知れた者がよい。まぁ、急だったせいでクレヴィング嬢の父母には無理も言っただろうが――私は己の身分を正しく使うことを躊躇しない」
シオンが燕尾服を脱ぎながら笑う。
学院生活は、王子にボタンの外し方も教えた。
「大方、この屋敷で一番監視が厳しい俺と同室になることで、自分も部屋を抜け出さなかったって証拠がほしいんだろ」
「なんだ、ばれておったか。かわいげの無い」
王子という立場上、常に人の関心を集めるのは仕方の無いことと言える。
社交の場に出向く度に、パートナーの女性と関係を持ったのではないかと勘ぐられていては気苦労も絶えないに違いない。
その点、当主が溺愛する娘の連れてきた男――アイゼンと同室であれば、娘に不埒な真似をさせないよう、当主が厳しい目で部屋を監視下に置くはずと踏んだのであろう。
「しかし早かったな。もう少し顔を売ってくるのかと思っていたぞ」
まだ宴もたけなわという時間帯だ。パーティー会場からはまだ盛況している声が響いているし、紳士達はこれから集まって夜の時間を過ごす。
「学生だからな。自重はするさ」
「クレヴィングの顔色が優れなかったようだな」
アイゼンはベッドにあぐらをかくと、ぐしゃぐしゃと頭をかいた。
「知ってるなら聞くな」
「野心より恋人を優先するとは。何、感心感心」
はっはっは、とベストを脱ぎ、タイを緩めたシオンが笑う。
「それとも、それほどに不調だったのか?」
「……いや」
不調というわけではない。どちらかと言えば、逆だ。
長年心を苛んでいた兄との恋心に蹴りをつけ、フリーダはよほど安堵したらしい。緊張の糸が緩んでしまったのか、あどけない幼子に戻ったような表情を浮かべるフリーダをあのままあの場にいさせるのは危険だと判断したアイゼンが、退場を促した。
フリーダは何の疑いもなくアイゼンに従う。出会った頃よりも、格段に従順に。それはフリーダが、アイゼンを信用しているからだ。取り引き相手として、フリーダとアイゼンはお互いを信頼している。
恋人とは名ばかりの取り引き相手との別れ際。部屋の前まで送ったアイゼンに、フリーダは抱きついてきた。まるでそうすることが、ごく自然であるかのように。
――兄と真正面からぶつかれてわかったわ。もう、過去のものになっていたって……ありがとう、アイゼン。あなたのおかげよ。
抱きしめ慣れたはずの柔らかいからだ。見慣れたはずの穏やかな笑み。
輝くような彼女に、不埒な心が沸く。悟られぬように抱きしめ返せば、フリーダは無邪気に笑った。
――部屋で一杯いかが?
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
見開いてフリーダを見下ろせば、いつもの澄ました笑みとは違う――満面の笑みを浮かべて、胸に抱きつく力を込める。
――気軽に男を招いちゃいけないと、パパには教わらなかったのか? さぁ入れ。
緩んだ頬、涙に濡れた瞳、極上の吐息を見て見ぬふりをし、アイゼンはフリーダのためにドアを開けた。
――あなたなのに?
頭をかきむしりたかった。「ああ、そうだ」というのが精一杯だなんて、どこのガキだと自分を罵りたかった。胸に張り付くフリーダをベリッと剥がし、彼女の自室に放り投げると、アイゼンは客室へと足を向けた。
その全てを思い出していたところに、シオンが帰ってきたのだ。
「なんだ。すでに恋しそうな顔をしおって。よかったな私が同室者で」
「どういう意味だよ」
「私が相手では、矜持が邪魔して抜け出せまい」
したり顔で、ナイトガウンに身を包んだシオンが言う。
「口止めを頼むかもしれないとは?」
「そなたは、私に借りを作ることを好まぬ」
薄く微笑まれながら言い切られ、降参したアイゼンは枕に背から突っ込んだ。
洗い立てのリネンはいい香りがする。フリーダを育んだ匂いに包まれて、アイゼンは深い吐息を漏らした。
「なぁ……」
「どうした」
「馬鹿なことを言ってもいいか」
「勿論だとも、友よ」
シオンが、アイゼンの側に腰掛ける。茶化さなかったのは、人に弱みを見せたがらないアイゼンの声に、気丈さがないことに気づいたからだろう。
「恋を自覚した瞬間に、失恋したことはあるか」
アイゼンは仰向けのまま、顔を両手で覆った。
「そんな、道理にかなわないことを、する意味があるか? なんの意味にも、得にも無らないことをする理由は何だ」
逆らう術もない大波に立ち向かうかのような力ない声で、アイゼンが言う。
シオンはただ頷いて続きを促す。
「あいつは、世界で一番、恋を恐れている。恋する気持ちが、悪とさえ思っているだろう。必要ないんじゃない、恐ろしくて拒絶すら出来ないんだ。そんな相手に……恋だって?」
それも、彼女が好きな相手を想ったその顔に。
恋に落ちるなんて、笑えないほどに馬鹿げている。
乾いた笑みが、自嘲と共にアイゼンの口から漏れた。
――兄君の、婚約パーティーのために帰郷するんだろ?
そうアイゼンが告げた時、フリーダの顔が驚愕に染まった。フリーダに対して言葉で表せない胸のざわつきを覚え始めていたアイゼンは、その表情に呼吸が止まったのをよく覚えている。
その後の不器用な笑みは、
――……私も、私にも、必要ないの。恋なんて。
縋るようにアイゼンの手を抱きしめながら、必死に笑っていたあの時と、全く同じだった。
いつも完璧に自分を整えるフリーダが、唯一取り繕えない話題。
恋と――兄。
結びつけないはずがなかった。
彼女が何に苦しんでいたのか、アイゼンは正しく理解した。
貴族らしい娘だ。淑女そのままの娘だ。
正しくあろうとする人だ。
自分の悪癖に負けないよう、すべてを正そうと頑張っていた人だ。
誰よりも自分の悪癖を、軽蔑していた人だ。
潔癖とも言える彼女が、実の兄に抱いた感情をどれほど恥じているか……どれほど恐れているか。その表情ひとつで、わからないアイゼンではなかった。
したたかな、女らしい隠し事。
しかし不思議なほどに、身代わりにされたことに怒りはわかなかった。
彼女はきっと、兄に対する気持ちを抑え込もうと、頑張って、頑張って、頑張りすぎて――あの症状が出るようになってしまったのだろう。
それほど強い恋に落ちた相手を悟らせまいと、必死に誤魔化そうとするその強さに。その弱さに。アイゼンは我慢がならなかった。
その性癖を知っている自分にくらい、何故素直に甘えないのだと。
フリーダが貶める彼女の感情すら、自分は守ってやりたいのにと……そう思った瞬間に、アイゼンは自分の気持ちを知った。
損得で言えば、損に決まっている。
ここまで深みにはまって、得なんかひとつもない。適当なところで切り上げられなかったのは……アイゼンが、自身を擦り切らすほどに頑張っている彼女を、慈しみたかったから。
彼女のあの不器用な笑みを――本人にすら取り繕えないほどの強い感情を、自分のものにしたかったから。
押すか引くか。
迷うことすら、アイゼンには許されなかった。
恋に怯えながらも恋をしている少女に、とどめを刺すようなものだからだ。
望みのない恋は、伝えられた者にとって重荷にしかならない。
軽口に混ぜる真実は、ほんの少しでも彼女が笑顔になるきっかけになれば、それでよかった。
ただ、支えたかった。
そしてフリーダは、見事に立ちきった。断ち切った。己の初恋を。
「そなたらのことを深く知るわけではないが……今日の二人は、傍目から見てもとても信頼し合っているように感じた。それでは不服なのか?」
不服なのだ。アイゼンは、それよりももっと先が欲しい。ただひとつの、彼女の唯一がほしい。
「信頼を勝ち得るのがどれほど困難かは、そなたが一番知っておろう」
知っている。当初はそのために、フリーダを利用した。
そしてその信頼を勝ち得るがために利用できない男が、艶やかに笑う。
「女なら選び放題だったそなたのままならぬ初恋。特等席で見させてもらえる幸運を噛み締めねばな」
「うるせえ見物料払え」
返しに、いつもの切れも覇気も無い。
「私は恋を知らぬが……なぁ、アイゼン」
シオンが、未だ両手に顔を隠したアイゼンをなだめるような声を出した。
「そなたは随分と、いい男になったように感じる」
「っは。冗談交じりでなきゃ、愛も伝えられないようなガキがかよ」
「あぁそうだ。今のそなたは、恋を知る前のそなたよりも、よほど他人を敬えている」
この男は、いちいちと指されたくないところを、刺してくる。
一人の女にこれまでの人生観を変えられたなんて、そんなのもう、始まる前から負け戦のようなものではないか。
「連れ合いに、信頼以上の何を求める」
「シオンは、俺とフリーダが連れ合えると心から思って言ってんのか」
貴族の娘と、商人の息子。
釣り合いがとれると思う方がどうにかしている。
今日だって何度もそう言った視線に晒された。その度に、まるで自分のことのように傷つくフリーダを、何度連れ出したいと思ったことか……。
「当然だ。友に虚言を吐く趣味はない」
喉からかすかに笑い声が零れた。
悔しいが、今一番欲しかった慰めに違いなかったからだ。
身分など、どうにでもなる。いいや、どうにでもする。
けれど人の心ばかりは、どうにもならない。特に愛しい者の心ともなれば、無理矢理引っ掴んで、かたちを変えさせるわけにもいかない。
――俺に愛だの恋だのは必要ない。価値がないからな。
かつての自分の言葉に苦笑が浮かんだ。見事に振り回されている男の台詞では無いと思ったからだ。
気持ちが不要だと持ちかけた契約も、時間を積み重ねればかたちを変えていけるだろうか。
次の恋の相手になる努力を始める気はまだない――が、もし彼女の心が癒えたその時。
彼女の隣にいるのは自分であろうと、アイゼンは心に決めた。




