18:無償の愛を注ぐ腕
そこには、一際人が集まっていた。
本日の主役たちが盛況していることに、フリーダは安堵と感動を覚えた。皆、笑顔と祝いの言葉を携えて彼らを取り囲んでいる。
フリーダ自身、礼を言わねばならない立場だ。割り込んでいくなど以ての外。
人垣が静まるのを待っている間、フリーダの元にもひっきりなしに招待客が訪れた。兄達への祝いの言葉をと共に、ドレスやフリーダの美しさを讃える言葉を投げかけられる。フリーダはその度に丁寧に礼を告げ、隣のアイゼンを紹介した。
彼の家名を聞いた大抵の貴族は笑顔で受け流したが、中には大げさに眉をひそめる者もいた。当たり障りなく対応しながらも、フリーダはアイゼンの腕から決して手を離さなかった。
受け取ったグラスで、フリーダは渇いた喉を潤す。ボーイにグラスを交換された回数を数え切れなくなった頃、ようやく人垣が落ち着きを見せた。
「行くか?」
「……隣にいてくれる?」
腕をぎゅっと掴みながら、フリーダは囁いた。アイゼンを見上げることすら出来ない。ただ真っ直ぐに、それこそ決闘を挑むかのように――前だけを見つめている。
「勿論」
彼の唇から勇気とぬくもりを受け取ると、フリーダは背筋を伸ばして、一歩足を踏み出した。
「――ヘクトールお兄様」
無様に出だしが震えたが、目線は逸らさなかった。
そんなフリーダを勇気づけるように、アイゼンの腕に力がこもる。
招待客を捌き終えて一息ついている兄と――その婚約者に向かって、ゆっくりと近づいていく。これほどざわめいている会場で、自身のドレスの布と布がこすれる音まで聞こえるほど、フリーダは緊張していた。
「……フリーダ」
ボーイからグラスを受け取ろうとしていた兄が、そのまま手を振ってボーイを下がらせた。
近くで彼の姿を見るのは、本当に久しぶりだった。
懐かしさと、胸を刺すあたたかな感情に、目頭が熱くなる。
「この日をとても楽しみにしておりました……おめでとうございます、お兄様」
きちんと笑えているだろうか。
これ以上目を細めれば、涙が零れそうで。フリーダは顔に力を入れた。
「……ありがとう、フリーダ」
ヘクトールが、同じく拙い笑い返す。
ぎこちない時間が兄妹の間に流れる。互いにどうでたらいいのか、手探り状態なのだから仕方が無いのかもしれない。
数拍後だったか、数秒後だったか――
まごついているフリーダに向けて、ヘクトールがゆっくりと手を広げた。
ここで行かなければ、周囲に不審がられる。
兄の晴れの舞台に、一点の曇りも残したくない。
わかっているのに、フリーダは一瞬戸惑った。その戸惑いを見抜いたように兄の顔も強張る。
フリーダの持っていた疑問が、確信へと変わる。
兄は――妹と疎遠になっていた理由が喧嘩ではないと、知っている。
気づいてしまったらもう駄目だった。
胸が突かれたような痛みさえ感じる。今すぐ逃げ出したいのに、喉が震え、足が硬直する。
もう無理だと、睫毛を涙で濡らしかけた時――
「大丈夫だ」
隣でフリーダを支え続けていたアイゼンが、身をかがめてフリーダに囁いた。
全身を縛り付けていた緊張が、すっと溶けていく。
フリーダは返事の代わりにアイゼンの腕を一度ぎゅっと強く握ると、ゆっくり手を離した。
――コツン コツン
一歩ずつ。
この七年間埋められなかった距離が埋められていく。
「……兄様」
礼装に身を包んだ兄の前に立つ。
「フリーダ……綺麗になったね」
ヘクトールがフリーダを見つめて言った。
これほど近くで彼を見たのはいつぶりだろうか。声を聞いたのは。名を呼ばれたのは。兄の変化を一挙に目の当たりにして、彼の全てが眩しくて、視界が滲み始める。
震える唇を隠すために、ぎゅっと歯を食いしばった。
互いに涙で濡れた瞳で見つめ合う。
ヘクトールが、苦笑と言うには柔らかい……いたわりと愛に満ちた笑みを浮かべた。
「おいで」
「兄様――!」
フリーダは兄の胸に飛び込んだ。
七年ぶりの、兄のぬくもりだった。
「に、兄様、ごめんなさい。私、私……」
涙が喉に詰まって、うまく言葉を紡げない。せっかく施してもらった化粧もぐしゃぐしゃだろう。
完璧な淑女、シュトラール学院の“白百合の君”――
そのどちらも、今この場にはいない。
ヘクトール・クレヴィングの妹、フリーダ・クレヴィングがいるだけだ。
そうだ、兄の前ではいつもこうだった。
笑みを取り繕うこともなく、情けない自分を存分に見せていた。
だって、兄は絶対に、自分を見放さなかったから。
無条件で守ってくれる大きな腕。フリーダはこれが、一等大好きだったのだ。
「ず、ずっと、私、ごめんなさ……」
子供のように泣き出してしまった妹を周囲から隠すように、温かい腕が背に回った。
「気を揉ませたね。私こそ、妹をこんなにも追い詰めてしまった不甲斐ない兄で、すまなかった」
フリーダが耐え忍んだように、ヘクトールも苦悩を抱えていたのだ。そのことを知り、フリーダはどれほど自分が子供で、そして、近くにいない時でさえどれだけ兄に守られていたかを思い知った。
大きく首を横に振って、兄の言葉を否定する。
「兄様は、悪く、ない」
「――なら、もう喧嘩は水に流してくれるね?」
フリーダの気持ちに気づいていた兄が、周囲に向けてこの涙の意味を誤魔化してくれている。フリーダはそれに気づいて、喉からこみ上げる嗚咽を抑えられない。
「許して、くれるの?」
愛したことを。うまく感情に折り合いをつけられなかったことを。
心配をかけたことを。
「当たり前だ。もうそろそろ、私の方が可愛い妹に土下座しに行こうかと思っていたところだ。……見違えたよ、フリーダ。最初、誰だかわからなかった。こんなに綺麗になって……」
ヘクトールが、真っ赤な瞳を細めて言った。
唇が戦慄いた。深緑色の瞳から、ぼろぼろと大粒の涙が零れる。
顔を覆って泣き始めたフリーダの背を、ヘクトールがゆっくりと撫でた。
こんなめでたい日に涙を見せるなんて。たくさんの招待客を放って身内のもめ事を晒すなんて。申し訳なさに消えてしまいたいほどだったが、フリーダはどうやっても涙を止められなかった。
周囲も二人の会話からなんとなくの事情を察し、微笑ましく見守ってくれているようだった。とある婦人はハンカチで目尻を押さえ、とある男性は目頭に力を込めながら足早にバルコニーに去って行く。
フリーダの涙が一段落ついた頃、兄はフリーダの背をぽんぽんと叩いて顔を上げさせた。
「フリーダ、紹介させてくれるね」
「もちろんよ……お待たせして、申し訳ございません。お義姉様」
フリーダなりの最上級の歓迎で促すと、ヘクトールの側に控えていた女性がふわりと微笑んだ。
「私の最愛の人、ヴァーツェルだ」
兄に許されたという喜びがしめている胸には、覚悟していた痛みは全くと言っていいほど襲ってこなかった。
崩れ落ちて、無様に泣き逃げてしまうかもしれないと思っていたのが信じられないほどに、フリーダの心は凪いでいる。
「初めましてフリーダさん。ヴァーツェル・ヒューブナーです。お会いできる日を心待ちにしておりました」
「初めまして、ヴァーツェルさん。心からのお祝いと、歓迎を。おめでとうございます。どうかお幸せに」
たおやかな笑みを浮かべて挨拶の抱擁をしたヴァーツェルに、フリーダも同じように返す。
こみ上げてきたのは嫉妬でも恋しさでもなく、純粋な祝福の気持ちだった。
そのことに、フリーダがどれだけ安堵したかを知る者は少ないだろう。
「今はシュトラール学院に在学していると伺いました」
「ええ、その通りです。ヴァーツェル・ヒューブナーさん……? もしかして、”春の恋歌”で歌姫シュテルンヒェンを演じた?」
「お恥ずかしい……もう四年も前の演目ですわ」
「今年の音楽祭も、”春の恋歌”でしたの。それに、入学してすぐの歌劇祭であなたのシュテルンヒェンを見て……とても感動しました。まさかあの時に憧れた歌姫が、お義姉様になってくださるなんて……嬉しい」
互いに腕に手を添えたまま話していると、兄の視線を感じた。フリーダは顔に朱を散らしながらヴァーツェルから離れる。
「それでフリーダ。私も紹介を待っているんだけれど」
フリーダははっとして、パートナーを振り返った。
長いこと蚊帳の外だったというのに、その顔には不快感も気まずさも広がっていない。それどころか、世界中の愛を集めたかのような慈愛に満ちた視線で、アイゼンはフリーダを見つめていた。
咄嗟に声が出ずに、はくと口を動かした。
それが合図だったように、アイゼンがフリーダの元に進み出る。
「お呼びで? お姫様」
「……もう」
いつもの軽口に、ようやくフリーダは肩の力を抜く。
そんな二人を見てヘクトールは僅かに驚いた表情を覗かせるが、フリーダは気づくことなくアイゼンの手に腕を絡めた。
「お兄様、ヴァーツェルさん……紹介します。私の大切な人、ミスター・アイゼン・バーレよ」
大切な友人と言うべきところを、大切な人と言ってしまったのは、兄達にあてられてしまったからだろうか。
なんにせよ、こちらの方が彼は喜ぶはずだと顔を見上げる。きっと寸分の狂いもない理想的な笑みを浮かべていると思っていたアイゼンは、何故か真剣な顔をしてフリーダを見下ろしていた。
何か間違っただろうかと凍り付いたフリーダをなだめるように、アイゼンが口の端をあげる。
「失礼しました。彼女に率直な愛の言葉を捧げてもらえる機会は、少ないもので」
「まぁ。でもフリーダさんのお気持ちも共感しますわ」
「では私はアイゼン君に同情しよう。粛々とした蕾が、自分の前だけで花開くのを切望しているのは、彼だけじゃない」
兄のこういった面を初めて見たフリーダは、なんとなく居心地の悪さを感じる。
対して、ヘクトールの口説き文句にヴァーツェルは顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。うぶな彼女に驚くと同時に、フリーダはこういった台詞に耐性がついてしまった原因を見上げた。
「あなたも?」
「僕はもう少し、蕾を愛でるのも悪くないと思っているさ」
「もう、参考にならないわ」
「参考にしようとしてくれたんだ?」
「好みに少しでも近づけられるかと思って」
口調の違いにまだ戸惑っているためか、飾り気のない言葉が漏れる。それを耳にしたアイゼンは、笑みを浮かべたまま見事に固まった。
常に堂々としている彼らしくないその動揺を、まじまじ見つめる。
これほど優しくしてくれる彼の厚意に報いたいことが、それほどまでに驚くことだろうか。
「僕の好みのタイプを知りたいって?」
「ええ」
「じゃあ知っておいて欲しい。頑張り屋な、白百合の蕾だって」
「……んもう」
いいようにはぐらかされたフリーダは、アイゼンの腕をぺしんと叩いた。取り引きに面倒な感情は要らないと言い切った彼には、聞いてはいけないことだったのかもしれない。
「……君たちが仲睦まじいのは、十分に伝わってきたよ」
周りに人がいたことをフリーダは思い出した。それどころか、あれほど会うことを恐れていた兄の目の前だったのに、忘れてしまっていたなんて――
見れば、苦笑を滲ませた兄と、にこにこ微笑んでいるヴァーツェルがいた。
顔を真っ赤に染め上げたフリーダは、アイゼンの後ろにすすすと隠れた。周囲には、のろけ続けていたようにしか見えなかったに違いない。
アイゼンは背筋を伸ばしたまま、背後に消えたフリーダを目線だけで追う。アイゼンの背に消えたフリーダを、ヘクトールは目を細めてどこか懐かしげに見つめた。幼い頃、ああしていつも自分の背に隠れていた少女を思い出していたのだろう。
ヘクトールは、万感の思いを込めた瞳で、アイゼンを真正面から見つめた。
「アイゼン君、フリーダを……ここまで連れてきてくれてありがとう」
ヘクトールの言葉に含まれたものを、アイゼンは悟ったようだった。慇懃に頭を下げる。乱れひとつ無く整えられていた赤褐色の髪が、一筋流れた。
フリーダは彼の背に隠れながら、どうしようと戸惑った。
本当は、誤解だからだ。アイゼンはフリーダの本当の恋人ではないし、新しく彼を愛したから、兄の前に出てこられたわけでもない。
しかし、それを伝えるのはアイゼンと交わした契約に違反するだろう。
……それに、全てが誤解というわけでもない。
フリーダがここに来る勇気を得たのは、紛れもなく、アイゼンという支えがあったからこそだった。
――この日をとても楽しみにしておりました……おめでとうございます、お兄様。
出会い頭に兄に伝えた言葉は、嘘ではない。
フリーダの心からの言葉だった。
この日を怯えながらも、フリーダはずっと待っていた。……心待ちにしていたと言ってもいい。
だってこの日は、ようやく自分の醜い初恋を捨てられる日だと思っていたからだ。この日にならなければ捨てられないのだと、ずっと、そう自分を追い詰めていた……アイゼンに会うまでは。
「フリーダ、君は今幸せかい?」
半年前――いや、数ヶ月前のフリーダならば、きっとその言葉は何よりも残酷に聞こえただろう。
フリーダはこっそりとアイゼンの背から顔を出す。
「ええ、兄様……私、とても」
幸せよ。
そして、小さく。けれどしっかりと、頷いた。