16:夜が明ける音
アイゼンと共に休暇を取ることを告げると、ナタリエは涙を流して引き留めた。
そして、「絶対に婚前交渉だけは許さないから」と、血眼になった目ですごまれる。フリーダは得体の知れない恐怖に、何度も首を縦に振った。
旅立ちの日になると、バーレ商会の馬車が迎えにきた。
両親には、パートナーと当日に屋敷に戻ることを伝えていたので心配ない。娘のためにドレスを用意していたかもしれないが……そもそも、兄の婚約発表の場だと隠して帰宅させようとしていたのだ。意趣返しくらいさせてもらわねば。
シオンはすでに旅立っているという。一度王宮に戻って身支度を調えるため、手間も時間もかかるのだろう。
フリーダはアイゼンに手を引かれて、馬車に乗り込んだ。
***
「やあいらっしゃい! レディ・フリーダ。うちのボンクラ息子が世話になってるようで」
「抱きつくな。馴れ馴れしい」
「いいじゃないか。いくつか季節が過ぎれば家族になる仲だ」
「年寄りの先走りはみっともないぞ」
「こんな具合に、親を親とも思わない不遜な息子ですが、どうか見捨てずにいてやってくださいね」
軽快な挨拶をウィンクに載せたのは、アイゼンの父だ。
「ええ、勿論です」
笑いを堪えきれずに、口元に指先を当ててフリーダがくすくすと笑う。
バーレ家の馬車が連れてきた屋敷は、王都の中でも高級住宅が建ち並ぶ一角にあった。これも、いくつもある邸宅のひとつだろう。豪華な門構えなど、歴史だけはあるがそれだけのクレヴィング家よりも、よほど立派だった。
アイゼンに導かれて入った玄関先で、彼の父親の姿を見たフリーダは驚いた。多忙を極めると聞いていただけに、わざわざ自分の顔をみるために在宅しているとは思ってもいなかったのだ。
「このたびは何から何までお力添えいただきまして、ありがとうございます」
「レディの美しさを引き出すお手伝いが出来る光栄に、こちらこそ感謝しきりです。数刻後にこの扉が開くのを、今か今かと待たせていただきますよ」
「気は済んだな? 行くぞフリーダ」
アイゼンは呆れた顔で父を見ていたが、それを終いの挨拶と受け取ると、フリーダの手をとって屋敷の奥へと案内する。
「使用人は下がらせておくから、好きにいちゃいちゃしてきなさーい」
父の言葉を無視したアイゼンは、ずんずんと足を進める。
「あまり似ていないのね」
「そんなことはない。外面の良さとかな」
というと、あれほど人の良さそうな笑顔の内側は、やはり商人気質なのだろうか。フリーダは一度振り返る。
玄関でまだ手を振ってくれていたアイゼンの父に、二階の廊下からもう一度手を振って別れた。
「でもアイゼンは外面も内面も同じじゃない。強くて格好いいわ」
「あんたには外面しか見せてないさ」
進めていた足が一瞬、止まった。
しかし行き交う使用人達に指示を出しながら歩いていたアイゼンは、気づいていないようだった。
「悪いな。相手させて。主に金を出したのは親父だから、機嫌は損ねたくなかった」
「……いいえ、素敵なお父様だったわ。それにとても感謝してます。お父様に出資してよかったと思っていただけるよう、身を整えなきゃね。着飾った後に、きちんとまたご挨拶に伺うわ」
慌てて言ったフリーダを、アイゼンが振り返る。勢い余って彼の背にぽふんと突っ込んでしまった。
「なんだ。もう褒美がほしくなったのか? 屋敷の中はどこもかしこも親父の目だ。あんまり抱いてはやれねえぞ」
そう言って一歩離れたアイゼンは、けれどぽんぽんとフリーダの頭を叩いてくれた。
フリーダはアイゼンに叩かれた頭にそっと手をやると、小さく頷いた。アイゼンに、心の奥底に刺さった棘を悟られぬよう。
――あんたには外面しか見せてないさ。
フリーダには、もうアイゼンに隠していることは何もない。
きっと、だからだろう。
自分が全ての弱みを見せているのだから、彼も本心で接してくれている……なんて。うぬぼれ以外の何物でも無い。
アイゼンとフリーダは取り引き相手だ。
取り引きに不要なものは、二人の間に存在しない。
まがい物の恋人に感情は必要ない。
わかっていたはずなのに、何故かチクリと、胸が痛んだ。
***
使用人に手伝われ、入浴を済ます。
頬を火照らせたフリーダが出てきても、顔色一つ変えない男の座るソファの後ろには、一台のトルソーがあった。
それはまるで、曙のようなドレスだった。
抜けるような空とは違う。まだ誰も起きていない、ひっそりとした静かな空だ。
引きずるほどに長い裾にボリュームはない。しかし、何枚も重なった色違いのオーガンジーが、繊細でいて透き通るような空を見事に描きあげている。
青と薄紅が混じり合い、青色とも、薄紅色とも、また紫色とも言えない絶妙な色合いに仕立てられていた。
胸元は明けきらない夜を思わせるような、深い深い闇色。夜の空から置き去りにされた星が、零れてきたようにクリスタルが散らばる。窓から入る陽に照らされ、見る角度によって目が眩まんばかりの輝きを放っていた。
人知れぬ奥地でひっそりと咲く、朝露を宿したままの純粋な――
それはまるで、以前アイゼンが冗談交じりに言った、フリーダそのものだった。
「綺麗だろ。明け方の空――そこに咲く白百合は、フリーダ。あんただ」
見入っていた視線をドレスから剥がして、アイゼンを見た。
「あんたが、四年間の間に築き上げた鎧だ。そして、家族の誰も知らない、あんたの努力の結晶」
己の醜さを隠すためであっても、この四年間フリーダは血を吐くような努力を怠らなかった。常に笑顔を浮かべ、信頼を裏切る真似をせず、人の悪意にくじけず臍を曲げず、人の弱音を懸命に励まし、誰よりも理想の女生徒であろうと振る舞った。
完璧な淑女――“白百合の君”。
それが、フリーダが自らの手で築き上げた鎧だ。
「怖じ気づくな。今のあんたが怯えることなんてなにもない。このドレスを着て、俺を身につけたあんたは……家族の誰も知らない、淑女だ。あんたは、あんたが望むとおりに笑えるはずだ」
気づけば抱きついていた。
ガウンを羽織っただけのフリーダを、アイゼンが受け止める。
胸が震えて、うまく言葉に出来なかった。
「アイゼン、こんなっ、素晴らしい……」
「あとで針子にそう言ってやれ。寝ずの夜を何夜も過ごしたと聞いた」
「ええ、もちろん。もちろんっ」
ドアの開く音がした。使用人が気を利かせて廊下に出たのだろうが、フリーダは視線をやることさえ出来なかった。
「アイゼン、あなたは本当に最高よ」
ありがとう、ありがとうと抱きついたまま声を詰まらせるフリーダを、アイゼンはひょいと抱き上げた。
ソファに腰掛け、膝に横抱きにしたフリーダの頬を撫でる。アイゼンの手が、フリーダのこぼした涙で濡れた。
「男に雫を啜られたことは?」
熱のこもった視線に、動悸が高鳴る。
――男はあんたの雫を啜る最初の男になれる日を、毎晩寝台の上で夢想する。
「涙を? そんなこと、あるはず……」
一度にやりと笑ったアイゼンが何をするのか、フリーダはきっともうわかっていた。身を固めるよりも先に、アイゼンは唇を寄せる。目尻に当てられた柔らかいそれは、小さな音を立ててフリーダの涙を啜った。
「ひっ……んん」
触れる柔らかな唇と、肌をかすめた舌の感触にフリーダはあられもない声を上げた。背を這う快楽が、いつものように腰を抜かしながら駆け上っていく。
「今はまだ、これで我慢するか」
何がまだで、なにが我慢と言うのか。
「……アイゼン。加減してちょうだい」
窘めながら彼の肩に額をすりっと擦り付ければ、髪が流れる。白いうなじが露わになる。
「褒美が過ぎるわ……あなたなしで生きられないようにでもする気なの?」
「望むところだ」
「んもう」
ぺしんと指先でアイゼンの胸を叩く。
次から次に許容量を超えたことが起きたフリーダは、半ば放心気味にトルソーを見る。
「……あんなに大人っぽいドレス、似合うかしら」
素敵なドレスに気恥ずかしさを感じ、ちらりと盗み見ると、すぐにアイゼンの肩に顔を埋めた。
「あんたのためのドレスだ。似合うに決まってる」
「……この髪の色だし、今までドレスは淡い色しか持っていなくて」
まだ若い娘だからと、明るい色を着せたがるのは何処の母親も同じ。特に、ミセスのような黒みの含まれたシンプルラインのドレスを着せたがる親は、そうそういない。
それに、昨今クリノリンを着けるようなドレスは花嫁くらいしか着なくなっているとは言え、若い女性はもう少しペチコートで幅を広げたドレスを着ることが通例だ。
デビューしたばかりの年若い娘が着こなせるのか、フリーダが不安になるのも仕方ない。
「明朝は、黎明というらしい」
「黎明?」
「頭の固い学者が使う言葉だ――通常は夜明けのことを指すが、もう一つ意味があると聞いた」
「教えてくださる?」
「なにかが、新しく動き始めることをいうらしい」
しなだれていたフリーダが顔を上げて、アイゼンと視線を合わせる。
「兄貴を好きだったあんたが、変わるんだ。夜明けと共に」
唇をぐっと噛み締め、不器用な笑みを浮かべた。
「……変われると思う?」
「変われるさ。現にあんたはこうして俺と取り引きをして、恋人になってる。体の隅々まで触らせるような」
「それは、採寸だったから」
小さくかぶりを振ると、フリーダは再びアイゼンに身を寄せて顔を伏せた。首筋に頭を埋められた男は、片眉を上げてフリーダを見下ろす。
「それ以外では?」
「ほんのちょっとだけ……」
「へえ?」
アイゼンはまるで好機を得たかのように、目前に晒されていたフリーダの白いうなじに唇を寄せる。
「アイゼンッ!」
「これも採寸の内なんだろ?」
「ご褒美よ、それは」
どこかチグハグな怒り方をするフリーダに喉を鳴らしてアイゼンは笑う。
「着ろよ。似合うから」
頬を真っ赤に染めてアイゼンの首元を睨んでいたフリーダが、ぐぐぐと歯を食いしばる。
アイゼンが体を揺らして笑ったのが、気配でわかった。少ししてフリーダの頤を指ですくったアイゼンが、目線を合わせるために顔を上げさせる。
「それに、男は女を、自分の色に染めたいもんだ」
ドレスの胸元を飾る黒と同じ色の瞳にそう言われ、フリーダは視線だけを横に向けた。
「それは、恋人契約の……つまりその、アピール的に、よね?」
「あんたの好きに取ればいい」
「もう! またからかって!」
「あんたがからかい甲斐があるってことは、否定しない」
つり上がるアイゼンの口角を見て、フリーダは往生際よく白旗を揚げた。
何から何まで、降参だった。




