15:損得感情
いつの頃からかは、はっきりと覚えてはいない。
ただ、フリーダの中で兄――ヘクトールだけが特別だった。
ヘクトールが在宅時は、何処に行くにもついてまわった。ヘクトールが誰と話していても割って入った。人は皆、無邪気に兄を慕う妹を微笑ましく見守った。
――フリーダが「恋」という存在を知るまで。
十二歳のことだった。夏休みに帰ってきていたヘクトールにへばりついていたフリーダが、親戚の男衆にからかわれることとなったのは。
「まるで恋人のような仲睦まじさだな」
「大変だな、ヘクトールは。学院で恋人が出来ても、フリーダには内緒にしとかないとな」
大人は皆それを笑っていたけれど……フリーダだけは笑えなかった。
ヘクトールの恋人になりたいと思ったことはなかった。
けれど、ヘクトールに恋人が出来るなんてことを、想像もしていなかった。
心を燃やしたのは嫉妬の業火だった。想像するだけで、シュトラール学院の制服を着た、見知らぬ女が憎かった。自分からヘクトールを奪うのかと思うと、堪らなかった。
そしてそんな自分に絶望した。
自分は気付かぬうちに大切な兄を……一人の男として愛していたのだと。
それからフリーダはひたすらにヘクトールを避けた。元々、シュトラール学院に寄宿していた兄とは夏休みの間しか会えなかったため、それも難しいことではなかった。
しかし、兄が在宅中は決して離れようとしなかったほど、兄を愛してやまなかったフリーダだ。突然の変わりように、心配をする者も少なくなかった。
喧嘩をしたのかと何度も問いただされたが、フリーダは曖昧に答えるだけだった。
そして貫き続けた沈黙は、いつしか周囲にとって肯定となり、フリーダは長年兄と喧嘩をしていることになっている。
妹の突然の兄離れだというのに、ヘクトールから何かを直接言及されたことはなかった。
……もしかしたらヘクトールにだけは、気持ちを知られていたのかもしれない。
思えば、兄に拒絶されたことこそなかったが、求められたことも一度もなかったような気がする。兄は幼い妹の恋心に気づいて、傷つけないように距離を保っていたのかもしれない。
そして、求めてやまない兄と一緒にいられない反動は、顕著に体に表れた。
男性に触れたくて、堪らなくなったのだ。
十二歳とは言え、女が抱えるには酷な症状だった。
しかし、家にいる間はまだよかった。ふしだらな衝動に心が砕かれそうでも、屋敷には多くの男性が従事していたからだ。
年老いた執事や、見目麗しいフットマン。出入りの庭師や、庭を管理するゲームキーパーも。
はしゃいでいるように見せかけて背に飛び乗ったり、仕事を手伝うふりをして体にほんの少し触れることは、そこまで難しいことでは無かった。
少し甘えた顔をして幼い仕草で近づけば、父はむしろご機嫌になった。
兄の代わりは本当に……誰でもよかった。
毎日触れてさえいれば、渇望するほどの発作は起きない。
カントリーハウスでそうして穏やかに過ごしていたフリーダは、だからこそ知らなかったのだ。
兄が卒業すると同時に、逃げるようにして入学した学院生活が――同年代の男性が過半数以上を占めるような環境が――どれほどの地獄なのかということを……。
***
「あ、アイゼン、やっぱり……」
「じっとしてろ。すぐにすむ」
「こんな、下着姿で……」
「明かりは最小限まで落としてるだろ」
ランプを絞った薄暗い空き教室で、制服を剥ぎ取られたフリーダは心細さに身を震わせていた。体を這うアイゼンの指先が、甘い息を誘う。
「……やっ」
「いいな? 次そういう声を出したら、襲う」
「じゃ、じゃあ手を、せめて口を塞がせて」
「だめだ指先ひとつ動かすな。ずれる」
アイゼンが手にしている紐状のものを引っ張りながら、強い口調で言った。その声を聞いて、フリーダがさらに身を震わせる。
「せめて誰か、ナタリエに頼んで……」
「あんな大雑把なのがやってみろ。正確な数値なんか取れるわけないだろ」
大切な親友の悪口を否定したいのに反論できなかった。
フリーダは今、お針子どころか本物の恋人でもないアイゼンに、全身を採寸されていた。それも下着姿で。
――家にある服は全部兄貴も見たことあるんだろ。目玉が落ちるぐらい綺麗に仕立てて、悔しがらせるぞ。
そう言い出したのはアイゼン。悔しがらせるなんて大胆な発言だったが――確かに彼の言葉は魅力的で、フリーダもふらふらとついていってしまっただ。
つまり、のせられたフリーダが悪いのだが……この状況は予想していなかった。あまりの恥ずかしさに、暗闇でアイゼンの手の感触ばかりを追ってしまう。
「っ……」
「そうだ我慢してろ。いい子だ」
甘いアイゼンの言葉は、フリーダを羞恥に悶えさせる。フリーダはぎゅっと目をつむった。
フリーダは畑に立つカカシのように両手を持ち上げたまま、一ミリさえ動くなと厳命されている。皮膚のたるみ、引きつり一つ、その鋭い目は見逃すつもりがないのだろう。
勿論、ここにいるのはアイゼンだけだ。もうずっと使われていない空き教室の鍵を何故か持っていたアイゼンにより、急遽秘密の採寸デートとなっている。
暗幕を引いているおかげで、下着姿を隅々まで見られることはない……と思っているが、恥ずかしいことには変わりない。早くこの時間が追われ、とフリーダは体中を真っ赤に染め上げながら祈っていた。
「息を吸え、最大に。締め上げるぞ」
「私コルセットはいつも少し緩めで……」
「んな幼児体型で、兄貴の嫁さんの横に立つのかよ」
「……締め上げてちょうだい」
「いくぞ、息吸え」
すぅとフリーダは息を吸った。その瞬間に、アイゼンがメジャーで手早く胴周りを採寸する。
そのまま、足や手、首の太さや長さ。指も一本一本全てを計測され、当たり前のように臀部や胸囲もはかられた。
こっそりとナタリエと覗いた官能小説に書いてあった一節を借りれば、「もうフリーダの体で、アイゼンの知らないところは無いだろう」というほどの、綿密さだった。
終わった頃には、息も絶え絶えだった。
いつもアイゼンに触れられているというのに、何故か今日はものすごく疲れた。フリーダはぐったりとしつつ、制服を着込んでいく。
アイゼンに触れられると、喜びを体に無理矢理押し込めたような、堪えられない快楽から声が漏れてしまう。しかし今日は、どう表現すればいいかわからないが……これまでとは何かが違った。彼に触れるのも、声が漏れるのも同じなのに、どこか違ったのだ。
その違いがなんなのかフリーダが考えていると、びっしりとフリーダのデータが書かれた手帳を手にアイゼンが近づいてきた。
「着たか?」
「ええ、お待たせしてごめんなさい」
フリーダが服を整える間、アイゼンは後ろを向いてくれていた。最後に、フリーダをふわりとショールで包み込む。
「アイゼン」
「ん?」
アイゼンはすでに生身のフリーダからは興味を失ったかのように、手帳の中のフリーダの数字を見つめて何かを考えている。
ショールをきゅっと握りしめて、フリーダは尋ねた。
「ありがとう。……けれど何故こんなにも、協力してくれるの?」
手帳から目を離したアイゼンは、不安げな表情を浮かべたフリーダににやりと笑った。
「恋人に優しくするのに、理由が必要か?」
ぽかん。
と口を開いたフリーダを、アイゼンが笑う。
「知ってるかフリーダ。あんたのお兄様の婚約披露パーティーには王室も招かれてる……と、言うことは?」
「……兄嫁が、王室と縁がある?」
「正解。バーレ商会が磨き上げたあんたは、ただそこに現れるだけでいい。もちろん、あんたの隣は俺のものだけどな」
教師が生徒を褒めるような口調だった。
「……それじゃあ、あなたもきちんと得するのね?」
「俺は基本的に、得にならないことはしない」
アイゼンらしいとくすくす笑うフリーダに、アイゼンは手帳を覗きながら言った。
「その日は朝一でうちに行くぞ。前日から泊めてやりたいが……」
「ええ、ありがとう」
フリーダの名誉を慮る優しい「恋人」に、フリーダは感謝と共に笑みを送る。
「ドレスは至急作らせる。楽しみにしておけ。誰よりも綺麗に飾ってやるからな」
「だめよ。二番目にして」
兄の婚約発表なのに、兄に恥をかかせられない。
これまでの途方に暮れたような顔をしまい込み、きっぱりとした口調でフリーダが言う。
「我が儘なお姫様だ」
アイゼンはフリーダを抱き寄せると、つむじに口づけた。
少しだけ埃臭い空き教室で、フリーダはアイゼンの背に手を回した。




