14:この世で一番美しいもの
――愛する娘 フリーダへ
いつも通りの文言ではじまった手紙を読みはじめてしばらく立った頃、フリーダは「あら」と声をあげた。
「どうしたの?」
「帰ってこいですって」
「え? いつ? なんかあったの?」
休日だからと、部屋着のままベッドに寝転がって本を読んでいたナタリエが体を起こす。
「屋敷を改築するらしいんだけど、それにあわせて旅行に出るから、その前に娘の元気な顔を見たいって……旅立ちは半月後の予定? 随分と急だわ」
なにか違和感を覚えるが、娘の顔を見たいと言われて無碍に出来るフリーダではない。手紙を最後まで読み終えると、ひとつ息をつく。
「仕方ないわね。まずは寮長に相談してみるわ」
休日に学院の外に出られるのは限られたごく一部の生徒だが、家からの要請や、なにがしかの理由があった場合はこの限りではない。
そのあたりは、さすがに貴族の子女も預かっているだけあり、融通が利く。
「そうだね。何日くらいの予定?」
「すぐそこよ。一泊で帰ってくるわ」
シュトラール学院は王都にあり、社交シーズンの今はフリーダの家族達も皆、王都のタウンハウスへと住まいを移している。
「よかった。あんま長いと一人で寝るのさみしいもん」
「その日は誰かの部屋にお邪魔させてもらっていたらいいわ。寮長も咎めはしないでしょう」
厚手のカーディガンを羽織り、ショールを肩に巻くと、手紙を持ったままフリーダは部屋を出た。
フリーダの暮らす寮には年配の寮長がいて、母親のように生徒達の相談に乗ってくれる。寮長室の扉を開け、手紙を見せつつ相談すれば、彼女は顔中に皺を広げて快く送り出してくれた。
結果を伝えに部屋に戻ってもよかったが、せっかく階下まで足を運んだのだからと、フリーダは玄関に向かった。
玄関扉を開けると、そこでは今年入ったばかりの新入生達が、慣れない手つきで上級生の靴を洗っていた。たとえどんな身分のものでも、下級生の間はこういった雑用をせねばならないのが、シュトラール学院だ。これまで生まれ育った環境とは真反対の厳しい規律の元、根性と協調性が育まれる。
かじかむ手に息を吹きかけながら靴を洗っている子達のそばから、そっと立ち去った。
カーディガンを着てきてよかった。もうすっかりと冬めかしい校庭を、フリーダはゆっくりと進む。
こんな風に一人で散歩に出かけることも、今まではあまりなかった。人目に晒されれば晒されるほど、自らも人を見てしまうからだ。
ショールに顔を埋めて、ふふふと笑う。
上品な黒色のショールは、オニキスのようなアイゼンの瞳の色とよく似ている。アイゼンからもらった香水を吹きかけたショールは、フリーダのお気に入りとなっていた。
ふと顔を上げると、見慣れた男性がいた。
珍しく、周りに女生徒達はいないようだ。一直線にこちらに向かってきていることからして、フリーダに用があったのかもしれない。
休日にまで、なにかあったのだろうか。
フリーダは軽い足取りでアイゼンの方に歩いて行く。
「よう」
「ごきげんよう、アイゼン」
やはり自分に用があったので間違いないらしい。フリーダは柔らかな笑みで彼に挨拶した。
「どうかなさったの?」
「あぁ。ちょっと小耳に挟んで」
先日の数日間の身勝手な振る舞いを、アイゼンはないこととして扱ってくれる。
彼にとっては、話題に上らせる必要もないほど些細なことだったのかもしれない。ありがたいと思っているのに、自分勝手だが少しだけ心が痛んだ。
「何かしら?」
「あぁ……それは?」
「これ?」
手に持ったままだった手紙をアイゼンに見せながらフリーダは答える。
「実家から先ほど手紙が届いたの。半月後に一度顔を見せて欲しいって――」
「もう誰かを誘ったか?」
「え?」
そのまま、両親の旅行の話でもしようと思っていたフリーダは、突拍子のない質問に対応できずに目を瞬かせる。
「あんたが誰かを誘う前に、誘われに来た」
心底わからないはずなのに、嫌な予感がした。
どくどくどくと、皮膚の中で血管が脈打っている。
「何に、かしら」
動揺を悟らせたくなくて、フリーダは笑みを貼り付けた。
「兄君の、婚約パーティーのために帰郷するんだろ?」
息も出来なかった。笑みは瞬時に剥ぎ取られてしまっただろう。
誰かに殴られたかのような衝撃を受け、よろめく。
手紙がポトリと、芝に落ちた。
「……あんた」
笑みを保つことも出来なくなったフリーダの顔を見て、アイゼンが驚愕している。フリーダは必死に口角を上げた。
笑わなければ。
思えば思うほど、普段どう笑っていたのかわからなくなった。頬が引きつり、瞼が痙攣する。
何度も何度もヘタクソな笑みを浮かべては、何度も何度も作り直した。
笑みを取り繕うことに必死すぎて、アイゼンが近づいてきていることにも気づかなかった。知らず知らずのうちに地面に落ちていたショールと手紙を、アイゼンがしゃがんで手に取る。
ふわりとショールを広げると、フリーダを包む込む。
途方に暮れた、笑みひとつ浮かべられない心細い顔をした少女を安心させるかのように。
「……アイゼン」
「いい」
何が「いい」のかもフリーダにはわからなかったが、ひとつだけわかっていることがあった。
今このときだけは、彼を身代わりにするわけにはいかない。
フリーダは身を固くさせた。しかしその心情さえも知っていたかのように、アイゼンはフリーダの耳に優しい声を吹き込む。
「それでも、いい」
慈悲深いその声色に、フリーダの唇が戦慄いた。
「――なぜ……急に、何を」
なぜ優しくするのか。なぜ抱きしめるのか。
なぜ。
それでもいいなんて……それじゃ、だって、まるで。
「あんたが今まで笑えなかったことは、一度だけだ」
彼の言葉の意図を察したフリーダは、氷のように体を凍り付かせる。
「あんたがどれだけ完璧であろうと努力していたのか、今わかった」
――“白百合の君”、淑女の鑑。
人からの賞賛を聞く度に、嬉しさよりも安堵が勝った。
こんな症状が出る自身を……そして、何より。こんな症状が出る原因を隠せていると、安心するからだ。
それなのに、知られてしまった。
必死に作り上げてきた完璧な鎧が、アイゼンにはきかなかった。見透かされてしまった。ただ一度の失敗で。
きっと誰よりも……軽蔑されたく無かった人に。
「私……」
「ああ」
震える体をアイゼンが強く抱きしめる。
縋り付くことさえ出来ずに、彼の腕の中でただじっと立ち尽くした。
神は、許しがたい罪を犯した人間に罰を与えるのだろう。
あの症状は、罰。度しがたい、醜い感情を抱いた罰。
「……あなたの、見透かす通りよ……」
言葉と同時に、涙が漏れる。
一度漏れると、もう駄目だった。
アイゼンの強さに憧れた。
だってフリーダは、恋をいらないと言っていいなんて、思ったこともなかった。
本当は何よりも美しいはずのその感情を、自分は汚していた。世界中に申し訳なかった。
せめて、それ以外は潔白でいたかった。人に後ろ指をさされないものが欲しかった。自分の汚さを覆い隠したかった。
誰にも言えるはずがなかった。家族になんて、絶対に言えなかった。
「私はあなたさえも……大切にできていなかった」
ようやく正気になってきたフリーダは、そっとアイゼンの胸を押した。
契約を交わすときに口にした言葉は、紛れもない真実だ。
フリーダはアイゼンと契約しておきながら、ずっとアイゼンを大切にできていなかった。ずっと、身代わりにしていたからだ。
触るのは、誰でもよかった。
誰だって、もう無邪気に触れることさえ許されなくなった――兄の身代わりなのだから。
「だがあんたは、誰よりも真摯だった」
隙間を作ろうとアイゼンの胸を押すフリーダを、あっさりと彼は力で打ち負かす。
「一緒に出席するぞ。フリーダ。俺はあんたのジュエリーだろ?」
涙が溢れる。
力強い言葉と腕に、フリーダはしがみついた。
婚約の知らせは、いつか来るだろうと思っていた。
来て当然の話だ。だけどその時、自分が一人で立ち向かわなければならないと思うと……どうしようもなく怖かった。兄の前で笑える自信がなかった。兄の前で、彼に縋らない自信がなかった。
そんなこと、兄のために絶対に許されない。
兄には世界で一番、幸せな道を歩んで欲しかった。
そのためには、笑ってパーティーに出席しなければならない。
手紙にほんの少し、兄への言葉を綴ることさえ出来ない臆病者の自分でさえ――兄の門出を、完璧な淑女として祝わねばならない。
「ついてきて、くれるの?」
「当然。卒業までの契約だ」
抱きしめながら囁かれたのは、今まで聞いたことがないほど、優しい声だった。
絶望が胸を押し寄せるのに、それよりもずっと、フリーダは満たされていた。
本当はずっと誰かに言ってそばにいて欲しかった。一人で、先の見えない恐怖に耐え続けるのは限界だった。
けれど愛情で引き留めるなんて二の舞だ。別の悲劇さえ生みかねない。怖くてそんなこと到底できるはずがなかった。
けれど契約なら、取り引きなら怖くなかった。
彼は契約という選択肢をくれた。
恋をいらないという勇気もくれた。
涙が止まらない。
彼のぬくもりが、言葉が。何よりもかけがえのないものに感じた。