13:とある男子寮の一室にて
「っだぁ……溜まる」
ガツン、と机を長い足で蹴る。
背もたれに寄りかかっている椅子の後ろ足だけで、男の体重を支えていた。背もたれから零れた頭から、煉瓦色の髪が流れる。天に向けた鼻は高い。しかしその上には、深い皺が刻まれていた。
「フリーダとはまだなんだ?」
ルームメイトに鼻を鳴らす。
「貴族の女に手なんか出せるかよ」
悪態をため息と共に吐き捨てると、アイゼンは大きく項垂れた。
「駆け引きなんか微塵も知りませんって顔して男引っかき回すのが、今の淑女の常套手段か?」
「僕はそんな上品な淑女と付き合ったことないから、わかんないな」
ヨシュカが肩をすくませる。
アイゼンは自分の契約上の恋人――フリーダを思い出した。
アイゼンがフリーダに契約を持ちかけたのは、生まれついてから数えるほどしか発揮していない、親切心だったと言ってもいい。
フリーダの持つコネや信頼は確かに魅力的だったが、制約を被ってまで学生時代に自分が築くものではないと感じていた。
いつだって、手を出すのは自分の両手が伸ばせる範囲。
その範囲で商売なり人脈作りを勤しんでいたアイゼンは、初めて自分だけでは制御できない重荷を背負った。自分の時間を切り崩し、人のために奔走し、彼女を側に置くことで多少のコネ――女友達を失うことも覚悟した。
弱みを握れたのなら、わざわざ正当に取り引きをしてやる必要なんてない。
彼女は馬鹿正直にも見せてしまった弱みで、一生アイゼンに怯えて生きればよかったのだから。
そのはずだったのに、取り引きを持ちかけたのは……
――は、は、離れないでえええええええ
あの声が、あの時の彼女の行動が、あまりにも予想外すぎて……そして、あまりにも彼女が不憫だったから。
しがみつく力はか弱く、すぐにでも振り払えるほどだった。彼女の目が、表情が、震える声が、全身が……アイゼンから離れたくないと訴えていた。
容姿も身分も関係なく、人にあんな風に心から望まれたことは……きっとなかった。
だからだろうか。相手が貴族だと知りながらも契約を持ちかけたのは。
要因は厳密にはわからない。やはり”親切心”で括るのが一番自分が納得できるのではないかと、アイゼンは思っている。
「留守にしようか?」
「自分で抜くような趣味はねえよ」
くそっ、と彼女の前では到底見せられない苛立ちを吐き出す。
フリーダの体は早熟……平たくいえば、肉感的な体つきをしている。淑女らしい初心さと、悪魔も溶かすような官能を匂わせる表情と体で、毎度毎度アイゼンにお預けを食らわせる。何度、本能のままに香る女の体にむしゃぶりつきたくなったことか。
女を喜ばせる言葉も器用さも持ったアイゼンが、涙を呑んで我慢しなくてはならない相手。
「女友達に寛容だって話じゃないか。誰かと一晩過ごしてくればいい。寮長には上手く言っとくよ」
「ヨシュカ。俺は、腐ったかぼちゃじゃない」
腐るときは中から腐敗していくことをかぼちゃにかけて、アイゼンが貴族を馬鹿にする。上流階級も庶民と変わらず一夫一妻制だが、貴族にとって愛人はその限りではない。
ヨシュカが肩をすくめる。
「恋人はかぼちゃのようだけど?」
「だから手を出してないんだろ」
同じこと言わせんなよとアイゼンが体中の力を抜いた。
「じゃあ今度の休みは店にでも行ってくるといい。ああ、僕も連れて行ってもらおうかな」
シュトラール学院では、休日の度にとはいかないがひと月に一度ほど、成績優秀者は特別に外出できる日がある。制服での外出が義務づけられているため、学生に見合わぬ場所に行くことは出来ないが――抜け道がないこともない。
「行ったことあるんだろう?」
「買い付けの時に、顔を繋ぐために親父に連れて行かれた程度だ」
「それでも僕よりは先輩だ」
「珍しいな」
「僕も溜まってるんだよ」
「へえ?」
「君のせいでね、ストレスとか」
アイゼンは顔を逸らしたまま、盛大にスルーした。
「失礼するぞ……どうした。椅子に干した洗濯物みたいになって」
小さなノックと同時に部屋のドアを開けたのは隣室の友人、シオンだった。彼は身分の垣根無く接しようと努力はしているが、いかんせん今までの育ち方のおかげで、人からの許可を待つ――などと言うことをナチュラルにスルーする体質であった。
「お行儀が悪いってよ」
「王宮に出仕する頃にはアイロンもかけておくから問題ない」
未だ椅子にぐでんと寄りかかったまま、アイゼンはわざと彼の身分を強調するような皮肉で客人を迎え入れた。
「なんの用だよ」
「用がなければ尋ねてはならんのか。友人甲斐のないやつめ」
シオンはアイゼンのベッドに腰掛け薄く笑う。
「僕らのアイゼンは今、ご機嫌斜めなんだよ」
「ほう、どうした」
「ご執心の恋人とねんごろ出来なくて荒れてるんだって」
「はぁなるほどな。それで私に八つ当たりか。この国の名を冠する私が羨ましいか?」
はっはっは、と冗談交じりに言えるのも、彼らに代え難い友情が芽生えているからである。アイゼンは氷点下の視線を持ってシオンの冗談に応える。
「ここのところフリーダと距離を取っていたかと思えばこれだから、彼の気分屋にも困ったもんだよ」
「そうだ。しばらく二人でいるところを見なかったが……」
ヨシュカとシオンは意気投合してアイゼンをからかってくる。
「うるさい。聞きたいなら金を取るぞ」
普段の三割増しに人相を悪くして睨みあげる。
いつもなら適当にあしらうだろう話題にも、アイゼンはうまく返せなかった。
「ほう。是非お聞かせ願おう。いくらだ」
上品な笑みと下世話な台詞を並べた最上級の男から、アイゼンは視線を逸らした。アイゼンが我慢せねばならぬことを、何一つ我慢しなくてよい男に久方ぶりの苛立ちを覚える。
順調に交際していたはずのフリーダから、一方的に接触を断たれたのはつい先日のことだ。
潔癖な彼女だから、良心の呵責に耐えられなかったのかもしれないと、会えなくなった当初アイゼンは気楽に考えた。
しかし、何の話し合いもなく身勝手に契約を反故にするような人間だとは思えなかった。“白百合の君”だから……という先入観もあるが、その程度判断できるほどには、アイゼンとフリーダは恋人としてうまくやっていた。たとえ、仮初めであっても。
フリーダが連絡を絶つ理由がわからなかった。うまくやっていると思っていた自負を見つめ直すつもりはなかったし、彼女の不興を買った覚えもなかった。
一丁前に駆け引きのつもりか――自ら離れていくならそれでもいい。
そう思おうと思うのに、そんなこと無理だろうと擁護する自分もいた。あれだけ無防備に女を晒すくせに、守る術一つ彼女は知らないのだ。
一人で大丈夫なのだろうか、症状に悩んでいないかと心配する自分に戸惑いを覚えつつ、アイゼンは結局フリーダを探していた。
何処にいても、誰と話をしていても、フリーダが側にいないか気配を探っていた。
ようやっとこさ捕まえたフリーダは、他の男に手を伸ばしている真っ最中だった。まさか自分を避けている間に、他の男で欲を埋めようとしているなんて考えてもいなかったアイゼンは、咄嗟に行動に出ていた。
彼女の欲望を満たす役目は自分だけのものだと思っていたし、彼女の秘密も自分だけのものだと思っていた。
そうきっと、所有物だと思っていたのだ。自分は。
アイゼンの心境に反して、腕の中のフリーダはただひたすらにアイゼンに縋った。
この世にはアイゼンしかいないとでもいうようにしがみついてくる姿は、無垢で健気で、何よりも守り抜きたいと思えるような愛らしさだった。計算ずくなら傾国すらたやすいに違いない。
結局、理由どころか、弱音ひとつ吐くことはなかった。
アイゼンがフリーダを信用しているのは、こういうところだった。フリーダは自らの感情を優先しない。欲望に負けたときの苦しさを知っているからだ。徹底的に、彼女は負の感情を隠して生きている。
そんな彼女だったからこそ、アイゼンは「男に触れたくて堪らなくなる」なんていう馬鹿げた説明を信じた。フリーダが本当に誤魔化そうとしているのなら、もっとマシな嘘をつくと知っていたからだ。
あれだけ完璧な笑顔で自分を整えられる人間が、あんな滑稽な嘘をつく必要がない。
なのに、好感を持っていたはずのその姿勢が、あの時は何故か悔しかった。
彼女は自分に価値を求めていないと、感じたのかもしれない。
体はこれほど求めてくるくせに、心はひとつも覗かせようとしないフリーダの傲慢さに、どうしてやろうかと思っていたときに――
――……必要ないなんて……言ってもいいの?
最初は、なんのことかわからなかった。
あどけなかった。あまりにも拙いその表情に負けてしまわないように、アイゼンは軽口を叩いて虚勢を張った。
――……私も、私にも、必要ないの。恋なんて。
言葉を忘れた。
息を呑むことさえ出来なかった。
不器用な笑みに、零れる涙。
アイゼンにとって初めて見る、完璧ではないフリーダの笑顔だった。
あれでは……彼女にとってよほど意味のあるものだと、言っているようなものだ。発作が起きたとき以外は、いつでも完璧に自分を取り繕っていたフリーダ。
つまりフリーダにとって、それと同等か……それ以上に重要なこと。
そしてアイゼンには、関わりのないこと。
「なんだ、本当に拗ねておるのか」
「ねえ?」
完全に意識が逸れていたアイゼンは、シオンとヨシュカの声に反応して、垂れ下がっていた顔を上げた。
「ならば近衛になれ。叙爵に一番近かろう」
「んー。勝手になる分にはかまわないけど、推薦枠に入るのは厳しめだろうね。留年でもしない限り」
近衛騎士は、卒業時に運動科目の総合成績が学年で一番優秀な者が推薦してもらえる枠だ。一昨年からずっと、その座はヨシュカが独占している。
ヨシュカの父は貴族だが、彼は三男。自ら功績を挙げねば、貴族の席に座ることは出来ない。
「今日は進路相談の日だったか?」
「全く。皮肉はいつ品切れするのだ? そなたにとっても悪くない話を持ってきているというに」
部屋を訪ねた本題をようやく提示したシオンに、アイゼンが体を向ける。
「なんだよ」
「そなたの恋人――フリーダ・クレヴィングの生家から、招待状を受け取った」
シオンは胸元から、真っ白い封筒を取り出してそう言った。