12:完璧な彼女の不完全な笑み
体調を心配するナタリエを振り切り、フリーダはガウンに身を包み校庭を歩いていた。
今朝までうんうんと唸りながら布団に潜っていたのだ。ナタリエが心配するのも無理は無い。
本当はナタリエを安心させるためにも屋内――大食堂などでアイゼンを探せればよかったのだが、あいにくフリーダが無理そうだった。人がごった返す大食堂の中に一歩でも足を踏み込んでしまえば、一瞬にして淑女の皮を脱ぎ捨ててしまいそうだったからだ。
アイゼンが校庭にいる確証もない。とはいえ、大食堂にいる確証もないのだから、どちらで探そうと同じこと――そう自身に納得させながら、フリーダはゆっくりと校庭を練り歩く。
アイゼンを探すために辺りを見渡せば、フリーダと同じように一人でいる女生徒がいた。急いでいるのか、パタパタと小間使いのように忙しなく走っている。
見慣れない顔に、見慣れない行動が珍しく、つい凝視してしまう。すると女生徒は、フリーダの視線に気付いたように足を止めた。
そして全身を素早く手で払い、心持ちゆっくりと走り始める。明るい茜色の髪が揺れて、小さくなっていく。フリーダはなんとなしに、その姿が見えなくなるまで見つめていた。
その後も、フリーダはアイゼンを探し歩いた。
道で行き交う女生徒達と優雅に挨拶をかわしつつ、アイゼン以外の男子生徒が遠くに見えればすぐに方向転換して距離を保つ。
そうして歩いていれば、どんどんと人気の無い場所に入り込んで行ってしまった。フリーダは休憩を取るつもりで、ぽつんと置かれていたベンチに座った。
そろそろ休み時間を終える鐘が鳴るころだろう。
肩に羽織っていたショールに顔を埋めて、はぁとため息を落とす。
「また放課後、探しましょう――」
一旦引き上げるために、顔を上げたフリーダは硬直した。
見知らぬ男子生徒達がいた。
フリーダが用心して保っていた距離よりも、ずっと近くに。
手を伸ばして触れられるような距離ではないが、それでも数歩もあれば触れることが出来るだろう。人気の無い場所だからと安心していたことが、徒となったに違いない。おしゃべりに夢中な男子生徒達は、フリーダに気づくことなく校舎へと歩いて行く。
フリーダは立ち上がった。踏みしめる芝でローファーが沈む。
まるで毎晩うなされていた夢みたいに――ふらふらと吸い寄せられるかのように、男子生徒に向けて足を進めた。
「ねえ――」
手を伸ばしたその時、反対の手を掴まれた。
そのまま大きな手で口元を覆われ、強い力で体を引かれる。気づいた時にはくぐもった悲鳴を上げていた。それを全て知っていたかのように、自らのガウンの中にフリーダを押し込めたその人から、強く頭を抱きしめられる。
ふわりと、求め続けた香りがする。
「何か?」
「――あ、おい」
フリーダに声をかけられた男子生徒達が、振り返って動きを止める。
ガウンの中に腰が抜けたフリーダを隠し、抱きしめるように見せかけて支えているアイゼンが、低い声を出す。
「何だ?」
「あ……いえ」
「行こうぜ」
声をかけられたから立ち止まったというのに、何故か威嚇された男子生徒達が足早に去って行く。
「あんたは……本当に男なら見境無いんだな」
呆れたような声が頭上から響くが、頓着できない。
アイゼンの体に身を擦り付け、彼の匂いを胸いっぱいに嗅ぐ。
ガウンに包まれたまま、ガウンとジャケットの間に手を差し込んだ。体の奥から、ずぐずぐと疼くままに、彼に触れる。
力の抜けた体で、けれども必死に彼を求めた。我慢できない。何も考えられなかった。ただアイゼンに触れたかった。触れたい、触れたい触れたい触れたい。むさぼるように彼を求め、彼の全てを取り込もうと、滑る手でジャケットを掴み、何度もアイゼンの胸に頬を寄せる。
「アイゼン、あぁ、アイゼン……」
溶けるような幸福だった。
上ずった、熱に浮かされた声で何度も名前を呼ぶ。
こんな痴態を繰り広げるフリーダをガウンで隠すように抱きしめ続けていたアイゼンが、わずかの間動きを止める。かと思うと、今度は覚悟を決めるように大きなため息を吐いた。
「あっ、やだ……」
ほんの少し出来た隙間に文句を言うフリーダを黙らせるために、アイゼンが一度きつく抱きしめる。それだけで力が抜けたフリーダは従順になった。
腰の抜けた肢体をひょいと抱えたアイゼンが、背後にあったベンチに腰掛ける。
抱きかかえられた姿勢のままアイゼンの膝の上に座らされる。フリーダはその間も忙しなくアイゼンを手のひらで貪った。
腰から背を撫で回していた手は、胸にまわり、首に触れ、そしておとがいを捉えた。
欲望に濡れたフリーダの瞳は、潤んで頼りなさげに揺れている。
「アイゼン……」
吐息混じりの声は掠れ、情欲を隠しもしない。
両手で頬を押さえられ、肌と肌の温度を分け合うかのようにじっとりと頬まで合わせられてようやく、アイゼンは口を開いた。
「あんたのこの一連の流れが全部計算だったら、俺はさすがに容赦しない」
「一連の流れ? 計算?」
「はいはい、“白百合の君”はいはい」
知ってる、と額を押さえてまたため息を吐いて、アイゼンはベンチの背もたれに背を預けた。首がのけぞり、いつも整えられている髪が乱れる。
けれども、フリーダを払いのけようとはしない。契約を守り、フリーダの好きにさせてくれている。
好きなだけべったりとくっついていたフリーダは、授業が始まる鐘の音を聞いた頃、ようやく高ぶっていた熱が引いていった。
興奮が収まってきたフリーダは、彼の胸にぺたりと寄りかかった。それに気づいたアイゼンが、背をのけぞったまま声をかけてくる。
「気が済んだか?」
「また、助かったわ」
夢の中で何度も恐れたように、本当に取り返しのつかないことになるところだった。火照った体と心に、冷や水をかけられる。
「あんたを守れたならよかった」
恐怖に身をすくませたフリーダをなだめるように、大きな手のひらが背をさする。
「……もう少しだけここに」
「おとなしくそこにいる分はかまわねえよ」
今まで全くおとなしく無かったフリーダが体を起こし、顔を青から赤に染め上げる。
「……はしたないところをお見せして」
「見せられるのもかまわない」
「触れたことが?」
「そういう条件だ」
じゃあ何が悪かったのだろうと途方に暮れたフリーダの頭を、体を起こしたアイゼンがぽんぽんと叩く。
「それで。雲隠れは楽しかったか?」
この数日間の契約違反をとがめられ、フリーダは体を硬直させた。こんな状況では、うまく言葉が返せない。さらに彼の言いようでは、意図的にフリーダが避けていたことすら察されているようだ。
「なんの……」
「授業に出てたのは確認してる。某かの理由で時間を作れないなら、言付けのひとつ持たせないあんたじゃない」
ぐぅの根も出ずに、再びアイゼンの胸にぽてりと体を寄せた。
「……今はここが幸せだから、他のことなんて考えたくないの」
誤魔化しにもならない雑な方便だったが、アイゼンは苦虫を噛みつぶしたような顔をする。
「男も知らないくせに、扱い方だけは心得てやがる」
フリーダはふふふと笑った。悔しそうなアイゼンの口調に、少し勝てた気がしたのだ。
笑うフリーダを見て、アイゼンが大きなため息を吐く。
「我慢するな。俺がなんのためにいると思ってる」
その口調がなぜか拗ねているように聞こえて、フリーダは首をかしげた。
「なにか怒っているの?」
「……あんたの恋人役を、降りた覚えがないからだ」
契約に対して不安にさせてしまったのだろうか。フリーダは少し考えた後、アイゼンによりかかる力を加えた。
「……アイゼン」
「なんだ」
「私はあなたの周りの可愛らしいオトモダチとも仲良くするつもりだけれど」
「ほう」
「あなたにもし、大切な人が出来たら、私はいつでも身を引くわ」
フリーダは、アイゼンに触れる代わりに、ツテを与える。
その過程において、アイゼンの周りにいる女生徒達を牽制してしまうこともあるのだ。それはつまり、本来なら順調に育まれるかもしれなかった、彼の恋をも摘み取ってしまうということ。
「あんたは本当に……貴族の娘の鑑だな」
いつもよりもずっと皮肉げな笑みを浮かべたアイゼンが、フリーダを見下ろした。
「俺に愛だの恋だのは必要ない。価値がないからな。それならずっと、あんたとの契約の方が有益だ」
言い切ったアイゼンに、フリーダは目から鱗が落ちた思いで体を起こした。
「必要ない?」
「そうだ」
「価値がないから?」
「なんだ。お説教でも始める気か?」
まさか。という気持ちそのままに、フリーダは首を横に振った。
「……必要ないなんて……言ってもいいの?」
ぽかんと開いたさくらんぼのような唇から、あまりにもつたない声が漏れた。
アイゼンはわずかに瞠目すると、人の悪そうな顔でにやりと笑う。
「言っちゃ悪い法律があったとしても、法律の抜け穴を掻い潜るのが“悪魔の商人”だろ?」
いつもの不敵な笑みで、アイゼンはこともなげに言った。
フリーダはくしゃりと笑う。
今にも泣き出しそうなフリーダのその表情を見て、アイゼンが固まった。
「……私も、私にも、必要ないの。恋なんて」
アイゼンを心から強いと思った。
いらないと、不要だと切り捨てていいなんて思ってもいなかった。
だって、フリーダのこの不浄な感情とは違い――恋とは、人間にとって最も美しい感情だ。美しくあるべき感情だ。
望まない自らの体質も、生涯の孤独も、全てを受け止め続けてきたフリーダにとって……アイゼンのその言葉はあまりにも突拍子の無いものに、そして、強いものに思えた。
朝露のような雫が、ぽろりと零れる。
アイゼンの手を取り、頬にあてる。
フリーダが笑った。
この学院で、誰も見たことがないような、不器用な笑みで。




