11:偽りの代償
「アイゼ~ン!」
秋もが深まるに連れ、織物のショールを羽織る女生徒が増えてきた。
アイゼンと契約を始めてふた月――周りはすでに、二人が一緒にいることを当たり前のように受け入れている。
フリーダの移動式脚立は今日もその役目を全うするため、行き慣れぬ図書室へと共に赴いていた。
本を借り終えた二人は、図書室から出てすぐの廊下を歩いている。すると、彼を呼び止める明るい声が背後にかかった。
「おう、どうした」
濃い茶色の髪を乱れひとつ無いようにカールさせた女生徒が、ブンブンと手を振りながら近づいてくる。
「めっずらしい。なんでこんなとこにいんの?」
するり。
当たり前のようにアイゼンの腕に巻き付いた女生徒を見て、フリーダは、口元を整えた指先で押さえた。
そのフリーダを見て、アイゼンが共犯者の笑みを一瞬浮かべる。
ヨシュカの腕にぶら下がる女生徒達へと同じく「羨ましい」と言おうとしたのを我慢したと思ったのだろう。
フリーダもそのつもりで口元に手を当てた。
けれど、本当にそういうつもりだったのだろうか。なぜかちぐはぐな自分の思考に潜っている内に、アイゼンと女生徒の会話はすらすらと続いていく。
「そっちこそ珍しいな。図書室って柄じゃないだろ」
「私は歌劇祭に向けて、役作りの参考資料探しに来たの」
「へぇ役もらえたのか」
「そうなの! 絶対見に来てよ!」
秋が深まった頃に催される歌劇祭。それに関わるということは、彼女は演劇を専攻しているのだろう。
年頃の女性のように自らの美を磨き上げることに余念のないその顔は、生まれ持った美しさをさらに引き出し、舞台に立てばさぞや人目を引くだろうと思わせる。
「岩か? 木か?」
「人よ! 歌姫シュテルンヒェン!」
「へえ!」
「……の、義理の姉役よ!」
「意地悪な?」
「……そういう人かもしれない」
「あんた、きつい顔してるもんな。似合ってる似合ってる」
「なによ! いっつもいっつもそんな風に言って」
アイゼンの腕をぐいと引っ張った女生徒が、怒った顔を向ける。けれどそこに溢れていたのは、怒りという感情ではなかった。
「一生懸命演じるから。見に来てくれるでしょ?」
「そうだな」
人の目には決して見えるはずのないそれが、何故かそこに見えるようだった。
フリーダはなんとなくいたたまれない気持ちになり、彼女から視線を逸らす。
まなじりには長くアイラインが下向きに引かれている。
つり目がちな顔を少しでも和らげようとしているのかもしれない。
いじらしい彼女のアイゼンに向けた感情が、仕草の隅々にまであふれている。
これまで何度も、アイゼンを取り巻く女生徒達からはいい感情を向けられなかったというのに。フリーダは胸に浮かぶ感情に戸惑いを感じ始める。
すすす……とフリーダは身を引いた。
アイゼンはフリーダがいれば、どうしてもフリーダを優先してしまうことをこれまでの経験で知っていたからだ。
アイゼンにとって女生徒達は、フリーダと契約したことからもわかるように、貴重なツテだ。
そして、女生徒にとってアイゼンは……。
フリーダは申し訳なさを押し殺して、なるべく音を立てずに、気配を悟られずに、その場から立ち去った。
***
なんとなく、アイゼンに会いにいけない日が続く。
男子を避けるのはお手の物だ。これまで四年間続けていたことをやればいいだけ。
共有棟には必要最低限しか近づかず、授業が終わったらすぐに引き上げる。アイゼンの周りにはいつもたくさんの生徒――比率的に女生徒が多いのだが――が集まっているので、見つけるのは容易だった。
女子寮付近は、用事が無ければ男子生徒は近づくことすら不可能。
男を避けていると思われないバランスを保ちつつ、フリーダは淑女らしい生活を送っていた。
しかし、一度得たぬくもりを手放すのは容易ではない。
「ふぅ……」
「フリーダ、痛むの?」
覗き込んでくるナタリエに、フリーダはベッドの上で淡い笑みを浮かべる。
「心配しないで。月のものだし……あたためていればじきに治るわ」
「もう薬飲んじゃった方がいいよ。寮長にもらってくるから」
「大丈夫よ」
「じゃあせめて温かいものだけでも。ココア淹れてくるね」
「ありがとう」
ナタリエが心底心配そうな顔をして部屋を出て行く。フリーダは申し訳なさにまた一つため息を吐き出した。
特別生理痛が重いわけではないのだが、こうして人の注意を逸らす方便として幾度か使っていた。布団の中に潜り込み、全身をかき抱いて、荒い呼吸を整えながら男に触れたい欲求を抑える図をごまかすのに、丁度いい理由だったからだ。
そして今、アイゼンと離れているのはたったの数日間だというのに、フリーダは毎日隙さえあれば布団に潜り込んでいた。
前は、数ヶ月に一度程度だった。
発作が起きたとしても、一晩枕をぐしゃぐしゃに濡らして心の渇望に耐えれば、すっきりとまではしないものの……また耐えられるようになっていた。根性で我が身を奮い立たせていた。
というのに、今ではもしひと目男を見れば、本当に襲ってしまいそうなほど心が飢えている。
「……明日は、会うから」
契約なのだから。だから、隣にいていいはずだ。
むしろ、たった数日とは言え、勝手に離れたことも怒られるかもしれない。不仲説が起きてしまえば、彼にとって不利に動くだろう。
借りてきた本も、彼に持ってもらったままだ。それを取りに行くことを理由にすれば、きっと不自然ではない。
いや、そもそも彼に会いに行くことは不自然ではないのだ。だって、アイゼンとフリーダは恋人同士で――
「偽りの、契約上の関係なのに?」
つぶやいて自嘲する。
支離滅裂な思考は、フリーダを酷く臆病にした。
フリーダは想像すら出来ていなかった。
アイゼンに純粋な好意を寄せる女生徒に、自分の存在がどう写るかなんて。
彼女たちの抱える輝いた気持ちを、偽りの関係の自分が砕いてしまうなんて。
この醜い渇望が、あんなに純粋で綺麗な感情を奪ってしまうのだ。
「……消えて無くなりたい」
それは、アイゼンと触れあうようになってからは、一度も感じなくなっていた感情だった。




