01:見え透いた本音
「フリーダさん、本日の授業で不安な点があって……相談にのってくださらないかしら」
「放課後の予算会議、よろしければフリーダさんも出席なさって」
「お願い、フリーダさん。次の歌劇祭の舞台は、どうしてもあなたにも出演していただきたいの」
「皆さん、また後で詳しくお話を聞かせてちょうだい」
フリーダ・クレヴィングは、誰もが思わず頷きたくなるような顔で微笑んだ。
今にも飛び出しそうな足を、引きつりそうな頬を、はじけそうな胸を笑顔の仮面に押し込めて。
【 完璧な淑女のふしだらな契約 】
気を付けていたはずだった。
フリーダは息を切らして走った。普段は決して翻ることのないスカートの裾が風に靡き、白い足首を晒す。
何処か、奥へ。もっと奥へ――もっと、人のいないところへ。
頭の中は、逃げることで一杯だった。
大きな音を立てながら茂みを掻き分け、草地を蹴る。靴が片方が脱げ落ち、柔らかい絹の靴下を落ち葉や枝が刺してゆく。
スラリと伸びた手足には学生服も似合うが、ドレスを着たときにこそ魅力を増すだろうと誰しもに思わせる少女だった。
家族の元で過ごすことを義務付けられた夏休みを過ぎ、通い慣れた学院に戻って来たフリーダは、学院の敷地をひた走っていた。
深い森を写したかのような緑色の瞳は、何処か不安げに揺れている。いつもは腰まで流れている銀色の髪が、振り乱れるのも厭わない。
誰かに見られた気もしたし、誰かに呼び止められた気もした。けれどフリーダは足を止めなかった。止められなかった。
日頃の彼女であれば絶対にありえないその失態に悔いる暇もなく、ただ足を動かす。
森の小道のような茂みを通り抜け、ようやく足を止めた。
散々体中に葉っぱを付けたフリーダが辿り着いたのは、大きな大木だった。
広大な学院の庭の、余程端の方まで走って来たのだろう。振り返って確認してみても、煉瓦作りの校舎は見つけられなかった。
「……はぁっ……はぁ、はぁ……」
全く、見覚えも人の気配もない場所に辿り着いたフリーダは、額に張り付く前髪を指で掻き分ける。
弾む息を整えつつ、大木に近づいていく。まるで夢うつつのように、ふらふらと足取りは危うい。普段走ることを知らない膝が笑っている。
走ってきたはずなのに、その顔は赤らんでいるどころか真っ青だった。
胸を襲う衝動をどうにかやり過ごす。暴れ狂いそうな胸を抑え込むように、必死に両手で押さえる。
大木の前に到達すると、フリーダは崩れ落ちた。咄嗟に両手をついたが、制服が土で汚れてしまっている。はたいたところで、落ちるだろうか。じわりとフリーダの目頭が熱くなった。
たとえこの汚れがすぐに落ちたとしても、フリーダの罪深さは拭えない。
「うっ……」
両腕を抱えて、歯を食いしばる。そうでもしていないと、今にも叫び、胸を破きそうな衝動のままに駆け出してしまいそうだった。そんなこと、出来るはずない。そんなこと、していいはずがない。
このまま人知れず、足元から地面が崩れ、枯れ葉に埋もれたいとすら願ってしまう。
――なのに、
「おい。大丈夫か、あんた」
頭上で葉が擦れる音がしたかと思うと、背後から突然声をかけられた。
フリーダが凍り付く。
そして、気が遠くなるほどゆるやかに振り返る。
全身が、瞬時に鳥肌を立てた。
フリーダの後ろに立っていたのは、一人の男子生徒だった。
一度か二度、友人を介して面識を持った程度の男だ。
意志が強そうな瞳に通った鼻筋。赤銅色の髪に、同じ色の木の葉が一枚引っ付いている。
まさか、木の上に誰かいたなんて、思ってもみなかった。
普段は勝ち気な表情を載せたアイゼン・バーレの顔は、隅々まで心配の色を宿し、倒れ込んでいるフリーダを見下ろしている。悪魔のようだという噂とは違い、体調を崩した女生徒を心配する優しい心根が窺えた。
しかし、そんなアイゼンを見上げたフリーダの目が見開く。指が震える。口が渇く。
「あ……あっ……!」
あまりにも予期しない出会いだった。あまりにも覚悟の無い接触だった。
大きく開いた口元に手を添えて、悲鳴を飲み込んだ。
驚愕に彩られたフリーダの顔を見た彼は、フリーダの怯えを見て取り――瞬時に己の身を引いた。
彼の判断は正しかった。
何よりも、正しかった。
「駄目っ……近づかないでっ!」
とにかく、彼から一歩でも遠くに離れなければ。
心の奥底を刺激する激情を抑え、必死に自分に言い聞かせた。
震える足で立ち上がったフリーダが、 必死の思いで振り絞る。無我夢中だった。足がよろける。磨き上げられたローファーに、木の葉が纏わりつく。
「早く、早く何処かへお行きになって!」
みっともなく声がひっくり返っていたが、かまわなかった。フリーダは精一杯叫ぶと、強く目を瞑って彼がいなくなるのをただひたすらに待った。
「……おい」
だというのに。
まるで、今にも暴れ狂いそうな獰猛な動物に声をかけるかのように、アイゼンは慎重に口を開いた。
「……今から聞くことは、一分後には忘れてやる」
低いのに聞き取りやすく、よく通る声だった。
人に耳を傾かせる才能を、彼は持っていた。フリーダは、混乱状態の中で彼の言葉の意味を追う。爆発しそうな強い感情をおし込める為に荒い息を吐きながら、それでも彼女は辛抱強く口を閉じた。
フリーダが聞く姿勢に入ったことがわかったのか、アイゼンは動転しているフリーダにも理解できるように、ゆっくりと口を開いた。
「本音は、どっちだ」
フリーダは、掴んでいる布をぎゅっと握りしめた。
声が、体が、心が震える。
ありったけの想いを込めて、フリーダは叫ぶ。
「は、は、離れないでえええええええ」
――アイゼン・バーレの腰に、しがみ付いたまま。