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マイリトルベイビー  作者: 花南
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03

 一週間後

 心の傷も落ち込みも、時間が癒やしてくれるものだと思っていた。少なくともそう信じて、辛抱強く時が経つのを待っていた。

 春はめまぐるしい季節だ。新しいクラス、新しい勉強、新しい服、新しい女、新しい以下略。ともかく、忙しさに身を任せれば憂鬱なことはいずれ記憶の中に埋もれていく。

 ところが。

「八ヶ月だった?」

「千早さんの話では」

 あの後、千早が付き添って産婦人科に行ったと聞いていたのでどうなったのか戸浪に聞いてみたところ、なんと六ヶ月目だと思われた胎児は八ヶ月目だったそうだ。

「その二ヶ月の誤差ってどこに生まれたの?」

「てきとうに数えていたらしいです」

「なんて投げやりな」

「周期が安定していない人ならよくある話だと千早さんは言っていました。シンナーやっていて安定するはずがない」

 戸浪は冷静なように見えたが、おそらく内心穏やかではないだろう。事は自分たちの手に収まる範囲を超えはじめている。

「千早さんの話では、産む他にないとか。望んでいようが望んでいまいが、法律で認められなくなりましたからね」

「法律で認められてるかどうかなんてどうでもいいだろ。人の命だぞ?」

 森下が眉をしかめてそう言う。戸浪は平然とした顔で言った。

「ええそうです、人の命ですよ。法律が胎児のことを"人間"と認めたんです。誰かの都合で勝手に殺されたりしてはいけないものだと、やっと」

 森下のとらえかたと戸浪のとらえかた、どちらのほうが重いとらえかたなのかはわからない。眉間に思わず皺が寄る。

「でもさ、実質問題、産んだとして育てられるの? 夫となるべき男はあんなだし、母親はシンナーやってたってことは、子供に障害が出てない可能性のほうが低いわけで……」

 言いたくないし、考えたくもないが、畸形児が産まれる可能性は十分あるわけだ。

「何ふたりでこそこそ話しているの?」

 部室の隅で戸浪と話していると陸が近づいてきた。

「陸に話してみる?」

 森下が戸浪に聞く。男だけで話しているよりも女性の意見が必要なときかもしれない。


「それ……どうして誰も気づかなかったの?」

「さあ」

「『さあ』って戸浪、普通担任か友達か誰か気づくもんでしょう!?」

 戸浪に説明を受けた陸はすごい剣幕で戸浪に突っかかった。

「今誰に責任があるかという追求は無意味ですよ。生れてくる赤ちゃんをどうするか、です」

「どうしたもこうしたも、産むほかないじゃない」

 そうする他ないのだから、という結論までは全員いっしょなのだ。

「問題はそのあと、どうするかですね」

「私はその夫婦に任せないほうがいいと思うけれども?」

 陸はきっぱりとそう言った。

「親に恵まれないと子供が可哀想よ」

「碌な親にならないって誰が決めたの?」

「どこにいい親になりそうな要素があるの? 森下」

 陸はきりきりと眉を吊り上げてそう言った。

「言っとくけどね、『もしかしたらいい親になるかもしれない』なんて可能性で、子供の将来を奪うような真似しちゃだめよ」

「まあそれは僕もそう思うけれども」

「千早はなんて言ってるのよ? いくらあいつが女狐だからって今回は私と同じ意見のはずよ」

 陸はぎん、と戸浪を睨みつけた。戸浪に睨みをきかせる必要なんてまったくないのにと森下は思う。もっとも、自分も眉間に皺がよってばかりだが。

「そうですね。基本的には陸さんと同じ意見です」

「でしょう」

「だけど里子に出すつもりはないみたいです」

「どうする気?」

「千早さん自身が育てるのを手伝うとか言ってますが」

「はあああ?」

 陸はひときわ眉をしかめる。

「あいつに何ができるっての? 何無責任なこと言ってるのよ、あいつ」

 千早の言っていることは無責任なことなのだろうか。里親を見つけるのは大変かもしれない、だけど見つけて任せたら、自分たちはそのまま自らの生活に戻っていくのだろう。千早は相談に早く乗らなかったことに責任を感じている。決して陸の言っているような無責任な発言ではないだろう。

「とはいえ、千早さんが女優業をやめてまで責任をもつことでもない気が……」

「なんか言った? 森下」

「いや、今回のことに彼女すごく責任感じていてね、でもこれって千早さんのせいじゃあないよね、どう考えたって」

「当たり前でしょ。放置した女の責任よ」

 言うことがみんなバラバラだ。森下は孕ませた男が悪いと思っているし、陸は放置した女の責任だと言う。千早は気づかなかった自分の責任だと自分を追い詰めているし、戸浪は夏帆の家庭を救済しなかった社会の責任だと思っている。

 だけど責任の追及は、先ほど戸浪が言ったとおり、無意味なのだ。問題は誰が子供を責任もって育てるか、という点に絞る必要がある。

「ともかく、千早が責任感じていようがいまいが、それで責任もとれないこと言っちゃだめなのよ」

「それは陸に賛成」

「でもどうしますか? 大人の力が必要なのは歴然ですが、誰か頼れる大人がいるかどうか……」

「お父さんとかお母さんに相談しても、すぐには解決できないわよね……かといって、教師陣に頼むのもどうかって気がするし」

 陸が困ったように呟いた。

「でも誰かに相談しないと解決の糸口どころか袋小路ですね」

 戸浪がそう結論づける。結局事情に詳しい千早と戸浪で保健室の先生に最初に相談を持ちかけることになった。

 気づくと下校を知らせるチャイムの音。空乃と海馬は今日塾があって先に帰っていた。森下は陸に「送るよ」と言った。

「何、そんな親切なのよ」

「いや、いくら治安のいい地域とはいえ、暗くなってから女の子ひとり帰すわけにはいかないでしょう」

「夜中に呼び出すことはあるくせに夕方で心配するの?」

「夜中は人少ないけど、夕方は変質者出るし」

 昇降口で靴を履き替えて陸の家の方向へと歩き出す。陸の歩幅は森下のそれより狭いが、今日はいつになくゆっくりペースだった。

「そんなに僕といっしょにいたいの?」

「は?」

「すごくゆっくり歩いてるから」

「自意識過剰男。違うわよ、千早にも人間らしい一面とかあるんだって思ってただけよ」

「そりゃあるでしょう。お話に出てくる鬼ババアじゃないんだし」

 呆れたように森下が呟く。陸にいわせれば鬼ババアなのだろうけれども。

「陸さん、また何かひとりで思い詰めているでしょう。視野が狭窄すると英単語を忘れるよ?」

「忘れないわよ」

「considerateの意味は?」

「思いやりがある」

「Am considerate of your feeling(僕は君に気を遣っているんだよ)」

「全然ネイティブでない言い方ね」

「まあ受験生らしく、勉強しながら帰りましょう」

 森下がへらへら笑ってそう言うと、陸は立ち止まってこちらを睨んだ。森下も立ち止まる。

「あんたさ、経験あるの?」

「なんの?」

「言わせる気?」

「いや」

 さすがにそれは無粋かと思って首を振る。

「あるよ」

「……」

「陸はなさそうだよね」

「当たり前でしょ」

 陸が少し赤面してそう言った。

「それで赤ちゃんできちゃったときのこととか考えたことある?」

「まあ基本、そうなる前に予防するけど」

「もし出来ちゃったら?」

「パパになるしかないんじゃない?」

「愛してない女の子供でも?」

「愛してようがいまいが、半分は僕の血だし、責任はとらなきゃ。それは子供だとか学生だとか関係ないんじゃない? 快楽だけもとめてやったにしろ、愛していてやったにしろ、行為には責任が伴うものだと思う」

 街灯の明かりがちかちかと点灯しようとしている。随分と昏くなってきた。彼女の表情を確かめることはちょっと難しい。

「陸は、愛していない男の子供だったら産まないの?」

「どういう意味よ? 好きじゃない人とするわけないでしょ」

「だからね、くらーい道で、たとえば送り狼な僕に襲われたり、そこらへんの変質者に襲われたりで妊娠したとしたら、どうする?」

 短い沈黙ののちに、陸が「わかんない」と呟いた。

「だって私、まだ子供だもの」

「でも今年で僕たち十八歳だよ。未成年ではなくなるし、結婚もできる年齢」

「でも実感ないもん」

 森下自身も大人になるという実感はほとんどない。ただうっすらと、まだ子供でいたいという思いと、一人前に見られたいという思いの狭間でたゆたっているだけだ。

「童貞な三十歳と、早熟な十五歳はどっちが大人だと思う?」

 我ながら馬鹿な質問だと思いながら森下は陸にそう聞いてみる。

「三十歳のほうに決まっているでしょう」

「でもさ、三十歳のほうは愛を知らずに育って、十五歳のほうは愛に目覚めたとかいうことあったりして」

「あったとしても子供でしょ。三十歳はどう考えたって大人よ」

「そういう考え方もありかもね」

 森下は懐から煙草を取り出して咥えた。そういえばこれも本来ならば大人にならないと吸ってはいけないものだと思いながら。

「森下さ、私のこと嫌いだったりしない?」

 唐突に言われた言葉に森下はびっくりして陸のほうを見る。

「え、どうして?」

「だって私、あんたのことよく知らないくせに色々ひどいこと言った」

「何か言われたっけ?」

「毎日メールしていた内容忘れたの?」

そらんじられるくらい覚えているけど、でも全部事実じゃん。シスコンなのも、301位なのも、体力ないのも、停電恐怖症なのも」

 あっけらかんと森下は言った。自分で言っていてなんとへたれで間抜けな男だろうと思った。

「あんたって間抜けな男よね」

 そして毒舌家な彼女も同じことを思ったようだ。

「でも私の知らないこともいっぱいあったじゃない。親が不在なこととか、ハーフなこととか、あともう筆おろししちゃってることとか」

 何を言おうとしているのかが森下にはわからなかった。親がいないことを陸に言って何になる、バイリンガルでもないのにハーフだと名乗って意味があるのか、筆おろしに至っては報告する義務がない。

「私は知らないうちにあんたをいっぱい傷つけていたんじゃない?」

 深刻に思いつめた顔で陸がそう聞いてきた。森下は口元に柔和な笑みを浮かべて、小さな陸の頭を撫でた。

「僕はね、けっこう孤独には強いほうだし、日本人だし、ただのスケベな男子高校生です。君の知っている格好つけなくせにすごく間抜けで、あと好きな子に告白もできないへたれでもあります。だから安心して笑い飛ばせばいいよ、いつものように」

 元気づけるようにそう言った。陸の緊張が少しだけゆるむのがわかった。

「何よ、別にあんたのこと特別視なんてしてないからね?」

「はいはい、わかってるよ」

「わかってるの? 本当に」

 陸が睨みをきかせてそう言う。これだけ意識してこき下ろされ続けて、彼女に対してまだ愛情があるのだから自分も慈悲深い男だと自分を自画自賛しながら森下は「わかってるよ」ともう一度言った。

「随分暗くなったね。陸の家までの道のりがこんなに遠く感じたの初めて」

 森下は笑ってそう言った。

「ここで平気よ。あと百メートルないもの」

「そう? じゃあ帰ろうかな」

 踵を返して数歩いったところで、声をかけられて森下は振り返った。

「聞き忘れてた」

「まだあるの?」

 眉をひそめた森下に、陸が逡巡する。彼女らしからぬ反応に何を聞きたいのだとさらに眉が曇る。

「森下の好きな人って、誰?」

 背筋に電撃が走ったかと思った。

 たぶん言うなら今なのだ、今言わなかったら言う機会は一生失われて、陸はそのまま卒業して森下の届かぬところにいってしまうのだろう。だけど言ったところでどうなるんだ、付き合うつもりがないのにする告白なんて迷惑なだけだ。森下は沈黙した。

「言いたくないなら、いい」

 陸が踵を返して「ばいばい」と言った。

「いや、」

 思わず呼び止めた。陸が立ち止まって、振り返る。

「好きな子、いるんだけどさ、でも付き合うつもりは毛頭ないというか、いっしょにいて馬鹿やっているほうが楽しいというか、でもずっといっしょにいられたらなーとかたまに思うけれども、だけどその子とえっちするのとか考えられないという、そういう袋小路にいてだね……詰まるところ告白すると余計ややこしくなりそうだから今のままでいいかなーとか思っちゃったり……して……」

 陸の顔がどんどん険しくなっていくので最後のほうは消え入るような声で森下は言った。

「そんで、好きなの?」

「えーと……」

「私のこと好きなのかどうかはっきりなさいよ!」

「好きです」

 剣幕に押し切られるように間抜けに告白した。陸はすっきりしたかのように一呼吸つくと、「じゃ、帰る」と言って歩きだした。

「陸? 陸さーん、お返事は?」

「付き合う気ないんでしょう? なんの返事するのよ。ああうんそうそう、そんな気がしてたのよ、ハハン。みたいな?」

 どんな返事だ、それ。と森下は複雑な顔をする。笑われておしまいならばやっぱり告白なんてしなければよかったと。

「そっちもはっきり教えてくれればいいのに。僕のことどう思っているか」

 森下が不満げにそう言った。

「嫌いじゃないわよ」

「嫌いじゃないって? 僕は好かれてるのかどうかが知りたいな。さやかちゃんは僕のこと好きなのかどうでもいいのか、キスしたら喜ぶのかびんたするのか教えてよー」

「何よそのさやかちゃんって。あ、こら、抱きつくな」

 背後から首に抱きついてきた森下に陸が迷惑そうに声をあげる。

「なんで急に積極的になるのよ」

 テンパった声で怒鳴られてもそんなに迫力はない。陸の頭の上に顎を置いて森下は言った。

「そりゃ勢いがついたから?」

「あっそう」

「あっそうって。ひどいなあ」

 森下は笑って、陸の頬をつつくと言った。

「言って? 僕のこと好きだって」

「言って何になるのよ。付き合う気もない男に好きって言って何になるわけ?」

「思い出づくりとか」

「すごくむかつく」

 悪態をついて陸は頭の上に顎を乗せている男を見上げた。

「大嫌いよ、あんたなんて」

「ありがとう、大好き」

 ぎゅっと陸を抱きしめて、森下は笑った。陸に「好き」と言わせるなんて無理なことくらいわかっていた。だけど今はちょっぴりすっきりしていて、ちょっぴり嬉しい。

「『嫌いじゃないわよ』のあとは『大嫌いよ』ってオチ、いかにも陸らしい」

「大嫌いって言われて喜ぶあんたはすごく馬鹿」

 森下は「あはは」と笑ってからするりと陸から手を離した。

「じゃ、帰るよ」

「うん。ばいばい」

「陸さん、残り百メートル、狼に気をつけてね」

「あんたなんて蹴り飛ばすもん。かかってきなさい」

 本気でかかっていったらどんな反応をするんだろうと思いながら、森下は両手をあげて「参りました」と呟いた。

 そのあとは何事もなかったかのように踵を返し、陸を振り返ることもなく帰った。

 ある意味、正解じゃあないか。自分は付き合うつもりがなかったし、陸にもなかった。森下は想いを伝えることができたし、陸の「大嫌い」が裏返しなことくらいわかっている。二人の関係は今までと、一切かわらない。変化を望まなかったのは自分だ。

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