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マイリトルベイビー  作者: 花南
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02

 東雲高校のあるところから、駅でひとつ離れたところにある自宅に帰ると、森下は大慌てでリビングを片付けた。

 コーラのペットボトルが散乱しているテーブルを片付け、冷蔵庫の中の腐ったものを捨て、ゴミをまとめて勝手口の外に出した。

 ひととおり、リビングだけは見られたような状態になった。

 父親のエリクは半年に一回くらいの割合で帰ってくる。父親が帰ってきている期間だけは、彼に心配をかけないようにするのが森下の常だ。煙草もこの間だけはこっそり吸うようにしている。

 さて、父親が帰ってくる前に一本吸っておこうかと思って煙草に火をつけたときだった。

「ただいまー」

 と玄関のほうで声がしたので、慌てて煙草を携帯灰皿でもみ消し、ポケットに仕舞った。

「おかえり、帰り早かったね」

 声だけ投げかけると、しばらくして天然パーマの、彫り深い顔立ちの中年がリビングに入ってきた。

「随分大きくなったね、透。前に見たときはもっと小さかったのに」

 そんなに大きくなっただろうか。身長は一センチ伸びたか伸びなかったかくらいだと思うのだが。

 エリクは森下の両頬にキスをすると、「ただいま」ともう一度言ってから荷物を森下に渡した。

「これ、おみやげ?」

「うん。いつもどおり、パスタと洋服と、あと聖が勤めているブランドの化粧品?」

「僕がもらってどうするの? 化粧品って」

「男も化粧する時代だよ、透。といっても基礎化粧程度でいいと思うけれども。彼女とかいないの? 女の子」

 該当しそうな女性が多すぎて誰を紹介しても角が立ちそうだったので「いないよ」と呟いた。

「お父さん、透の彼女見たいなあ。聖もいつの間にか素敵な旦那見つけたし、透も素敵な奥さん見つけるんだよ?」

「何言ってるの。まだ僕は高校生なんだけど」

 十八で将来の相手を決めるなんて考えられない、と首を振ってから森下は言った。

「お父さん、姉さんは元気にしている?」

「元気だよ。もう一年になるからね、あっちの生活にも随分慣れてきたみたいだし……」

 ふと、エリクがこちらに視線を向けてきた。

「透もイタリアに来る気ない?」

「え、ない」

 二つ返事で「ない」と答えた。

「何今更って感じなんだけど。子供の頃イタリアに連れていくならともかく、今更イタリアだなんて」

「そうか……」

 心底残念そうにエリクが呟いた。

 この父親は嫌いではない、むしろ好きだと思う。だけど日本に愛着の湧いた今になって、イタリアという知らない土地に住む意味がわからない。

 姉にはデザイナーになるという夢があった。だからイタリアに渡ったのは理解できる。だけど森下にとって外国は言葉の通じない厄介な土地……くらいの認識である。

「今からでもやり直せないかな、って思ったんだけどな」

「何言ってるの。仕事に生きていた人がいやにしおらしいこと言っちゃって」

 森下は笑って、エリクの肩を叩いた。

「僕は大丈夫だよ。もう小さな子供じゃあないんだ、誕生日を迎えれば十八。大人だよ」

 そう言って父親を安心させた。大人なのだろうか、という疑問はある。自分はまだまだ子供のままでいたい。


 その日の夜はうなぎの蒲焼を食べた。うなぎを買ってきて、タレと山椒をかけて食べるだけなので森下でも簡単に作れる。

 食事を終えて、部屋でネットサーフをしていると、携帯に着信が入った。

 表示を見るとそこには「戸浪」の文字。あいつが電話で用件を伝えてくることは珍しいと思いながら通話ボタンを押す。

「僕だけど?」

――透くんですか? ちょっと厄介な事件に巻き込まれたんですが、こちらに来てくれませんか。

「厄介な事件? 厄介なのは嫌だなあ、僕が行けば解決するような内容なの?」

――少なくとも、裁判部の中では一番の適役かと。

「はあ」

 それは実力を買われてのことなのだろうか。

 戸浪のいるというファミリーレストランまで自転車を飛ばして行くと、そこには千早の姿と、まったく知らない女の子の姿があった。

「透くん、こっちです」

 見知らぬ女の子の隣に千早、千早と向き合うように戸浪が座っているので、必然的に女の子の真正面に座ることになった。

 可愛い女の子だとは思ったけれども、なんとなく不健康そうな子だな、と思った。

「森下くん、こちらは依田夏帆よだかほさんです」

 戸浪がそう紹介した。森下が煙草を取り出そうとしたら、千早が咳払いをしたのでテーブルの表示を見たが、別に禁煙席ではない。が、お向かいの夏帆をじっくり見ると、お腹が少し膨れているのだ。食べすぎというわけではないと思う。

「ああ、おめでたなんだ」

 煙草を吸ったらお腹の子に悪いというわけだな、と解釈して森下は煙草を仕舞った。

「それで、今日はどんな用件で僕は呼ばれたわけ?」

 まだ事情がよくわからなかったのでそう聞くと、千早と戸浪が言い難そうに森下を見る。

「森下くん、」

 千早が言いづらそうにこう言った。

「誰か、中絶させたことある?」

「は?」

 思わずぽかん、としてそれだけ呟いた。

「孕ませて、堕ろさせたことある?」

 千早がもう一度そう聞いた。

「ない、ないないない」

 しつこく四度否定してしまった。どういうことだ? と戸浪を見ると、戸浪も言いづらそうだった。

「夏帆さん、子供を堕ろしたいそうなんです」

「それ僕でなく産婦人科の人に言うべきじゃない?」

「でもどう思いますか? 彼女のお腹見て」

 言われてお腹をまじまじと見た。妊婦の腹を何度も見たことがあるわけではないが、けっこうな大きさだ。

「ええと、何ヶ月?」

「六ヶ月だってさ」

「六……」

 絶句して、夏帆を見るかわりに戸浪を見た。

「いちおう法律では、二十二週間以内なら堕ろしてもいいことになっています」

「って戸浪くんは言うんだけど、それは所詮男が作った法律であって、六ヶ月の赤ちゃん堕ろしたりしたら母体への負担だって大きいし、無理だと思うんだけど」

 お向かいから千早がそう言う。

 とりあえずレストランで何も注文しないのはよくないので、コーラを注文してから戸浪向き合った。

「僕が適任ってこういう意味だったの?」

「他に中絶に詳しそうな人いますか?」

「僕は避妊には詳しいけれども中絶には詳しくない」

 きっぱりと言い切ってから、水を口に運ぶ。なんだか自分ならば無責任な事態を引き起こしたことがあるだろうと言われたような気がして甚だ不名誉だと感じた。

「そもそも、夏帆さんと知り合いなのは千早さん? 戸浪? どっちなの」

「私よ。依田ちゃんは中学時代の後輩なの。今年東雲高校に入るんだよ」

 ということは中学時代にできた子供か……などと考えた。

 さっきから無言で黙っている夏帆を見て、笑いかけてみる。

「夏帆さんはずっと黙りっぱなしだね」

 夏帆は答えなかった。市松人形のように切りそろえた黒髪と、まっすぐに結んだ口と、こうして見ていると人形のような子だ。

「人見知り激しいから」

 千早がそう呟いて、森下を見る。

「どう思う? 私も今日になって相談受けて、会って見たらお腹すごくてびっくりして、思わず戸浪くんなら頭いいからと思って呼んだんだけど」

「どうって言われても……」

 法律でどうであろうが、ちらりと夏帆の腹を見て、森下は言った。

「無理じゃない?」

「だよね。堕ろすのは無理よね」

「夏帆さんのお父さんお母さんはどうしているの? 気づかないわけないでしょう、このお腹」

「それが……いないの」

「いない?」

 孤児だろうかと思ったが、服装を見る感じではそういう風でもない。

「この子の家庭、ネグレクトなのよ」

 噂には聞いたことがある。親が子供を育てることを放棄した家庭があるということを。森下自身もそんなに親と接点があるわけではないが、特にそれで苦しんだ記憶はない。

「じゃあ、相手の男は?」

 話題はすぐに切り替えた。突っ込むとややこしい話になりそうな気がしたからだ。

「なんだか私たちと同じ学年なんだって。つまり東雲高校の生徒」

 先ほどから千早が全部の説明をしていることに不自然さを感じながら、森下は「じゃあそいつ呼んできて」と言った。

 言ったのは夏帆に向けて言ったはずなのに、千早が夏帆にそれを伝えてそれで夏帆が電話をかけるために千早から携帯を借りる。

 レストランの外に電話をかけに行く彼女を見送ったあと、小声で森下は言った。

「彼女、何か精神的な疾患とかもってるの?」

「そういうわけじゃあないけれども、シンナーやってるから」

「あの……戸浪、僕の対処できる範囲外です」

 思わず音をあげると、戸浪が

「じゃあ陸さんや空乃さんに任せられると思いますか?」

 と言った。たしかに陸や空乃では無理だろうし、海馬でもそれは同じ。なるほど、裁判部の中で自分にお鉢が回ってきたのはわかるような気がした。悪い意味でもそうだが、いい意味でも常識の外で生きているのは森下くらいのものだろう。

「依田ちゃんのお家、お金は入ってくるけれども基本子供しかいないじゃない? 先に依田ちゃんのほうがシンナーにはまって、それしている最中に弟に見られて、巻き込んだんだって。だから二人とも……その」

 なんとなく千早が依田夏帆のことを見捨てられない理由がわかった気がした。救われないくらい、悲しいのだ。

 きっと姉の聖が夏帆のような姉だったら、森下も同じようなことになっていたのかもしれない。運がよかったのは姉が聖だったことか、それともそこまで追い詰められなかった境遇だろうか。

「もっと早く気づいてあげられればよかった……」

 俯いて呟く千早を戸浪が「千早さんのせいじゃあありませんよ」と慰める。

 千早のせいではない、それはたしかだ。じゃあ誰のせいだというのだろう。気づいてやらなかった中学の担任か、彼女たちを放置していた親か、彼女の恋人か、それとも本人か。弟だって、姉を支えることができたはずなのに酷いじゃあないか。

 そこまで考えて、どうして自分がそんなに弟にだけ敵意をもっているのかということにはたと気づく。

 やがて、ひとりの少年といっしょに夏帆が戻ってきた。別に非行少年というわけではなさそうだ、話が通じるかもしれない。

「ええと、彼氏の島田孝作しまだこうさくです」

 少年はぺこり、と頭を下げた。とりあえず席が足りなくなったので、外に出ることになった。


「僕たちの結論から言うとだね、」

 戸浪だともっとストレートに言いそうな気がしたので森下が切り出した。

「堕ろすのは無理だと思う」

 といっても、これ以上といってないほど、ストレートに言うほかないわけだが。

「そんな、困るよ。俺、大学進めなくなるし」

 孝作がそう呟く。森下はアホか、と思った。大学がすべてなわけではない、自分の恋人と大学を天秤にかけて大学が勝つのか。

「でもさ、妊娠させたのは君なんでしょう?」

「俺だって証拠あるんですか?」

 ほら来た。逃げの常套句。女は自分で産むから自分の子供なのは間違いなくわかる、だけど男はそうとは限らない。

「他に誰か赤ちゃんの父親になりそうな人、いるの?」

「夏帆の弟、とか」

 隣にいた千早が殴りかかりそうだったのを戸浪が止める。が、その瞬間今まで黙っていた夏帆の手が大きく動いた。

 ぱちん、と平手のぶつかった音が聞こえる。

「呆れた人」

 ぼそっと、彼女はそう呟いた。そうして千早を振り返る。

「秋野先輩、堕ろすお金借りられますか?」

「かまわないけれども、でも無理だと……」

「この人の子供は産みたくないんです」

 きっぱりと彼女はそう言うと、反対方向に歩いていく。千早がそれを追いかける。

 残された男性陣の間に沈黙が訪れた。

「妊娠させるのが怖いならパイプカットしておきなよ。コンドームつけるのが面倒なら女の生理をしっかり勉強しておくことだね」

 森下はそれだけ言うと自分の役目は終わったとばかりに自転車をとりに戻った。戸浪が残っていたが、彼は別に激情型ではないので問題なかろうと思って放置した。

 自転車を漕ぐ間、色々な考えが頭の中をめぐっては消えた。あまりいい思考でなかったのはたしかだ。


 自宅に帰るとエリクが「おかえり」と言った。「ただいま」と呟くと冷蔵庫からコーラを取り出してコップに注いだ。

「透、どうかしたの?」

 コーラを口に運ぼうとした瞬間、エリクがそう聞いた。

「色々、考え事したら疲れちゃって、甘いもの補給」

「また何か思い詰めることがあったんでしょう」

「普段はそんなに思いつめることなんてないよ? ただちょっと、今回は深刻かもしれないと思っているけれども」

「お父さんに話せないこと?」

「ううん、もう解決したから」

 森下はにっこり笑った。夏帆は中絶すると言っていたのだから、これ以上突っ込むことはない。そう思うのに

「父さん、望まれない子供はどこへ行くんだろう」

 思わず聞いてしまう、自分。

「望まれない子供?」

「時期もきていないのに無理やり母胎から引きずりだされて、ビニール袋に捨てられちゃうのかな。それとも排水溝に流されちゃうのかな」

「どうしたんだ? 透」

 エリクがびっくりしたように聞き返した。

「よくわかんないけれども、いきなり怖くなっただけ。僕が母さんに祝福されなかったら、どこへ行っていたんだろうなって」

「馬鹿なことを」

 エリクが森下の頬に触れた。心配そうにヘーゼルの瞳が見つめている。

「お前が生れてくるのは薫もお父さんもすごく望んでいたんだぞ?」

 本当のことだと知っている。だけどたまに思う、体の弱い母親が二児目の自分を産まなければ、死ぬことはなかったのじゃあなかろうかということ。もちろん一時の気の迷いとはわかっているが。

 人間は本当にアンバランスにできている。愛してもいないのにセックスはできて、望んでもいないのに子供はできる。逆にどんなに望んでいようとも、産むことのできない夫婦もいるのだ。無理に望んだ代償は、母親の命に関わる。

「本当、どうしようもないくらい落ち込んでるみたいだ。珍しく」

 森下は困ったように笑った。エリクは少し悲しそうな顔をして、森下の背に手を回すとやさしく抱きしめてくれた。

 柄にもなく、父親の肩に額を預けてしまった。本当に人間は、命に対して、どうしようもなく無力だ。

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