2-3.『ごちそう』
ロゥとアネモネは朝から川沿いを上流へ向かい歩いていた。
アネモネの村がどこにあるのかを調べるため、まずは川沿いの探索から始めることにしたのだ。
「魚はえーっと、こう?」
「ぶぶー」
「えー? んー、こう?」
「正解」
ロゥは空中で指を動かし、「文字」を書いていた。
アネモネが導き出した「自分にできること」が「文字」だった。
幼い頃より家の外へ出る機会が少なかった彼女は本を読んで過ごしていた。
村の中での識字率は1割にも満たない。村の中で使わないからだ。
村が外交を行うのは商人との取引のみ、その取引も村長が行い村人には関わりがないため文字を覚える必要がなかったのだ。
「三文字は難しいね」
「組み合わせさえ覚えて仕舞えば4文字も5文字も要領は一緒だよ」
彼女はロゥの家で本が棚に置かれているのを見つけた。
自分も読んだことのあるおとぎ話や冒険譚など比較的簡単な本だった。
もしも、ロゥが自らその本を読めるようになれば彼は喜ぶのではないか、という考えの基にアネモネは「家において貰う代わりに文字を教える」という提案を出した。
そして、ロゥはその提案を受け入れた。アネモネが予想したとおり、ロゥはおとぎ話や冒険譚を自分で読んでみたいと感じていた。
お互いの需要と供給が一致した結果、ロゥはアネモネから文字を教わっている。
「じゃあ、次はうさぎ」
「んーと」
アネモネがお題を出し、ロゥが指で文字を空中に書く。
これを繰り返しながら上流へと歩いている。森の風景はほとんど変わらない。
緑と川と空。それだけしかない。しかし、文字の勉強に集中すると変わらない景色も気にならなかった。
太陽が最も高い位置になったあたりで景色に変化が生まれた。川が二つに分かれていたのだ。
ロゥとアネモネは川を右手側にして歩いており、そのまま進めば分岐の左へ行き、川を渡り反対岸へ移らなければ分岐の右には進めなかった。
「このまま左の方に行ってみようか」
「うん、それでいいよ」
ロゥの意見にアネモネが同意して二人はそのまま川を右手側にしながら左の分岐へ進む。
左の分岐では川幅は狭くなりながら木々や草花が増えていった。
太陽が傾き、夕日に近くなった頃には向かい岸まで大人3人が手を広げ並んだほどの距離になっていた。だが、水の勢いはアネモネが見つかった場所とは比べ物にならないほどの急なものだ。
子供なら抵抗もできず下流へと流されてしまう。
「なんだか森が暗いね」
アネモネが不安そうにつぶやく。
段々と森の奥へと入り込んでいた。川辺は砂利が消えて湿った土に代わり、頭上は木々の枝葉が日の光を遮る。
太陽の光がなくなり、じめじめとした空気が漂った森はまるで洞窟の中にいるような閉塞感を産んでいた。
「何かが潜んでいそうで怖い」
不安から後ろ向きの思考が頭を渦巻く。
木の後ろ、木の上、根の隙間、影ができている場所から誰かが見ているのではないか、と不安が不安を呼び心細くなっていった。
「ねえ、ロゥくん…………ロゥくん?」
耐えきれなくなったアネモネはロゥに話しかけ、少しでも不安を和らげようと試みたが返事が返ってこないことを不思議に思い視線をロゥへと向けた。
彼は木の根元にしゃがみこみ、土地を掘り返している。
「ロゥくん、何しているの?」
「ん? にゃーに?」
振り返ったロゥは口を動かしている。
何か食べているせいでちゃんと話せていない。
しかし、その姿がアネモネにはどんな場所でもいつも通りのロゥなのだと安心できた。
「ふふ、ロゥくんったら何食べてるの?」
「ごちそうだよ」
そういって彼はアネモネの分も確保しており、「ごちそう」を彼女へと差し出した。
ロゥの小さな手、その指先は土で汚れており、手のひらには白いブヨブヨとしたものが乗っている。
見慣れない「ごちそう」にアネモネは首を傾げ、よく見ようとさらに近づいた。
目と鼻の先まで近づき、それをよく観察していると「ごちそう」がピクリと動いた。
「え?」
うねうねと体を動かし、手の上を蠢く。
「ごちそう」はまだ自分が捕食されるなどと思ってもいない様子で呑気に頭を動かし、そしてアネモネの方を向いた。
目は存在しないのだが、アネモネはその「ごちそう」と目が合った気がした。
彼女はその「ごちそう」がなんであるか認識した瞬間、体が硬直し思考が停止する。
「食べないの?」
固まってしまったアネモネにロゥは「ごちそう」を近づける。
その距離は口と「ごちそう」が接触しそうなほど近い。
「ほら、あーん」
ロゥがアネモネの口に「ごちそう」を入れようとさらに手を伸ばすと、アネモネの唇に「ごちそう」が接触した。
絹を裂くようなアネモネの声が森に響く。
アネモネが突如天を仰ぎ、目をこれ以上ないほど見開きながら絶叫する。
おとなしい印象だったアネモネの想像だにしない声量にロゥも目をパチクリさせ、動くことができない。
肺にある空気をすべて出し、あらゆる思考を停止させての大絶叫だ。
「わ!?」
そしてすべてを絞り出した彼女は意識を手放し膝から崩れ落ちる。
ロゥは手に持っていた「ごちそう」を放り出し、とっさにアネモネの体を受け止めた。
「アネモネ? アネモネ?」
声をかけても彼女は瞼を閉じ、青白い顔で気を失っていた。
アネモネが気絶した理由が検討つかず、ロゥは困り果てたまま彼女を抱えることになる。
彼女が目を覚ますのはそれから10分ほど経った後だった。
☆
目が覚めた後、アネモネは黙々と歩いていた。
ロゥは彼女の背中を追いかける。
雰囲気に気圧され、ロゥも何も言えずに無言で歩いていた。
「もう「アレ」は食べちゃダメ」
ロゥの方を向かないまま、アネモネはハッキリと聞こえるように言った。
「美味しいのに……」
「ダメなものはダメ」
怒気を含んだ口調にロゥは耳を垂れるほど気を落とす。
あれほどおいしい「ごちそう」を受け入れて貰えず、ロゥは幼いながらに文化の違いを痛感していた。
「アネモネも食べてみれば?」
「森には果物や動物がいるんだから、それを食べればいいの!」
「……はい」
有無を言わせない口調でロゥはしぶしぶ頷くしかなかった。
「(甘くてぷりぷりしてるんだけどなぁ)」
アネモネは鬱蒼とした森の中を大股で先に進む。
「ごちそう」の件で森に抱いていた不安が完全に吹っ切れていた。
「(「アレ」に比べれば暗いだけの森なんて大したことないかな)」
坂や斜面が多くなり、地面は草花に覆われだんだんと山道の険しさになっていった。
川は相変わらず勢いが急で渡ることは困難に思えた。
景色の変化は多くはなかったが、上流に向かい一足先にロゥが変化を察知した。
「んー、こっちの方じゃなかったね」
「え? どうして?」
ロゥは獣人の特性により人には聞き取れないほどの小さな音、遠くの音を聞き取ることができる。
今聞こえてくる音の中に川のせせらぎや枝葉がこすれる音以外のものあった。
ぴくぴくと彼の犬耳が動く。
「滝の音がする」
「滝……」
それから歩いて数分、二人の探索は終わりを迎えた。
「すごい……」
アネモネが滝を眺めながらそう呟いたがロゥには聞こえなかった。
滝は首が痛くなるほど上を向かなければ頂上が見れず、近くにいると水が叩き付けられる音で会話も困難だ。
自然の偉大さを表すかのように巨大な滝がロゥとアネモネの前にそびえている。
滝の下には大量の水が流れ、幾重にも分岐して森へと進んでいった。
その中の一つをたどり、ロゥとアネモネはここに到達したのだ。
「最初に見つけた別れ道を右に進むのが正解だったね」
ロゥがアネモネに言うが彼女には届かない。
「さすがにここから落ちてたら死んじゃうよね・・・・・・」
アネモネもロゥに話しかけるが滝の音にかき消されてしまう。
夕焼けが滝にかかり、幻想的なオレンジ色の光の中で二人は茫然と滝を見つめていた。