2-6.神様なんていない
「(…………痛、い)」
痛さで目を覚ました。
まるで頭の一部が欠けてしまったような錯覚に陥る痛みだ。
「今度はちゃんと死ぬようにせんとな」
声が聞こえる。
ぼやける視界は徐々に鮮明になっていく。
大勢の人に囲まれている。
あたりは暗く、松明の火によって照らされ、ゆらゆらと影を作る。
アネモネは体を起こそうと身じろぐが、強烈な痛みによって動くことが叶わなかった。
「うっ…………」
かすかに首を動かし辺りの様子を伺う。
日はすでに暮れ、松明の火がゆらゆらと辺りを照らしている。
たくさんの村人がアネモネを見下ろし、その中に村長と両親の姿もあった。
「起きたか」
「おと、さ」
「グズが」
「ぅぐ!?」
かつて父と呼んでいた男はつま先をアネモネの腹にめり込ませた。
弛緩していた腹部に痛烈な衝撃を受け、肺の中の空気が一気に口から逃げ出した。
溢れ出す脂汗とは裏腹に全身は悪寒に包まれる。
まともに息ができない。
「……ぅ…………か、はぁ……」
「なぜ」
「う!?」
「なぜ生きていた!」「この」「親不孝、ものが!」「この」「この」「この」
絶え間なく続けられる暴行は慈悲も容赦もなく、アネモネが父と慕っていた存在は自分の娘だった存在を蹴り続けた。
村人はそれをただ見ている。感情は一切ない。家畜を処理するとき、稲を収穫するとき、果物を木からもぎ取るとき、自分が生きるために他の生命を糧にすることに人間は躊躇をしない。
村人はそれがもし自分と同じ人間であっても、村のために死ぬのなら問題はない。全員がそう考えていた。
個が集まった集団は集団を存続するために弱い個を捨てる選択をした。
「ハァハァ………」
「「調整」はその辺にしておけ」
かつて父と呼ばれていた男は肩が上下するほど息を荒くしている。
頃合いを読み、村長が歩み寄った。
「また戻ってこられては困るからな。供物もバカにならん」
村長は視線を横にそらす。その先には祭壇に果物や麦などの村の蓄えが積まれている。
生贄を差し出すも、その生贄が生き残ってしまった。村人たちはそのことによって山の怒りを買うことを恐れ、生贄以外にも供物を捧げることにした。
その供物は村の貯蓄から捻出されてる。
土着信仰により、村人たちは山と山に住まうとされる神へと豊作と加護を祈願する。
かつて飢饉と疫病により村の存亡の危機に追いやられ、その際に山へ口減しと人柱を兼ねた生贄を捧げたことからこの習慣が生まれ現在まで続いていた。
貴重な食料を使ってまで山への生贄は村の存続と等しく重要な事柄だった。
「連れてこい」
「はい」
かつて父と呼ばれていた男はアネモネの服を掴み、雑に持ち上げる。
月が雲の隙間から現れ、あたりを照らす。
岩肌がむき出しになった山、その頂上に彼らは集まっていた。
山の下には草原とそれを囲むように森があるはずが、夜の闇に飲み込まれ真っ暗な光景が広がる。
男の進む先は祭壇。
祭壇の前には子供が入れそうな木の箱が置かれ、蓋は外れている。
申し訳程度に布を敷き、中に供物を収めるようになっている。
アネモネはその箱に入れられる。
仰向けに寝かされ、彼女にはかつて父と呼ばれていた男の顔が見えた。
箱の周りに他の人間も近づいてくる。村長と母と呼ばれていた女が側までより、松明の光が届かない範囲に多くの村人がいる気配がある。
「みんな集まったようだな」
村長が祭壇の周りを一瞥し、アネモネの元両親に向かって言う。
「では、2度目になるが祭事をとりおこなうか」
「はい、さすがにこの状態で落とせば今度は大丈夫でしょう。ギリギリまで「調節」しましたので」
「うむ」
アネモネが母と呼んでいた女は小さな声で話しかける。
「ああ、よかったね。次はちゃんと役割を果たすんだよ」
「(役割……)」
「あんたは生贄になるために今日まで、本当は前の祭事の時まで育ててきたんだよ。それなのに戻ってくるなんて……」
「(……私の役割って死ぬことなの?)」
「考えたのかい? もし、あんたが戻ってきて、私達の居場所がこの村にあると思ったかい?」
「(居場所……、ああ、最初から私にはそんなものなかったのか……)」
「ああ、よかった。よかった……」
涙を浮かべ、顔を皺くちゃにして喜ぶ母だと思っていた女をアネモネはひどく醜く感じた。
幼い頃の思い出も、ついこの間まで普通に接していた体験も、すべて遠くの風景のように脳裏をよぎった。
その映像に何らかしらの感情を持つことはできない。まるで他人の書いた日記を読んでいる感覚だ。
「(ああ、私は生まれた時から居場所なんてない)」
女が立ち上がると同時に男衆が近づき、アネモネの横たわる箱を持ち上げた。
女衆は祭壇にあった供物をそれぞれ手に持ち、崖から投げ捨てていった。
川の流れる音、谷を吹く風音がすべてをかき消し、松明の光が届かない谷底へ供物は飲み込まれていく。
「(ロゥくん……)」
ただ一人、アネモネが出会った人間で居場所を与えてくれた少年の顔を思い浮かべる。
「(ああ、私はただの生贄になるくらいなら、ロゥくんといたい。私のことをいらないって村のみんなが、この世界が言うのなら、私は自分の命をロゥくんのために使いたい)」
そう願った時、彼女の中に何かが流れ込んできた。
同時に彼女が押さえ込んでいた感情が外へと押し出される。
「(嫌。死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。憎い憎い憎い憎い憎い憎い。全部壊れちゃえばいいのに!)」
全身が痙攣を起こし、箱を持つ男衆が怪訝な顔を向ける。
一人の男が箱を持つ自分の腕に真っ赤な花びらが付着していることに気がついた。
ここらでは赤い花は珍しい。アネモネが裏庭でこっそりと育てていた花の色と同じだが、そのことは家族以外には知られていない。
「死んじゃえ」
ぼそりとアネモネの声がその男にだけ聞こえた。
そして真っ赤な花びらは無数の粒子になって消え去った。
「あ?」
箱を持つ男の一人が声にならない音を喉からひねり出し、箱から手を離した。
バランスが崩れ、箱が地面へと落下する。
「おい、何して」
他の村人が非難しようとするが言葉を途中で失った。
その村人だけではない、他の箱を持っていた男衆も全員が呆然としていた。
「どうし」
ひらひらと舞う花びらが男衆の周りを漂っている。
風はなく、何よりも花がない。この近くは岩肌の露出した山だ。
そんな環境で自生できるほどの植物はほとんど存在しない。
しかし、男衆の周りには幾百の花びらが舞う。
「な、なんだ」
「どこから」
状況を理解しようと辺りを見渡す。
しかし、明確な答えは出て来ない。ただ混乱だけが増すばかりだった。
「ああああああああああああああああああああああああ!」
はじめに箱を手放した男が頭を両手で押さえながら悲鳴をあげる。
獣じみた声は男衆だけではなく、谷に供物を投げ込んでいた女衆や辺りを囲っていた村人も驚き視線を向ける。
「な、どうし」
「だ、じけ、だずけ」
おぼつかない足取りで歩む姿は底知れない恐怖を辺りに与えていた。
松明で照らされる男の姿は真っ赤に染まっていた。
「あ、あぁああ!」
近くにいた男衆の一人にしがみつき、ようやくその男の顔が見れた。
男の顔は肉が抉れ、血を吹き出し、骨や神経、黄色い脂肪が露出していた。
「うわぁああ!?」
しがみつかれた男は血まみれの顔を間近で見てしまい、恐怖でその腕を振りほどいた。
その恐怖は徐々に広がり伝播していく。
「あぁあああああああああああ!」
断末魔を叫びながら男は頭を地面にぶつけ、熟れた果物のように真っ赤な血と肉が辺りに飛び散ることでようやく止まった。
村人の誰もが言葉を失い、川と風の音が辺りを包む。
大勢の人間が呼吸すら忘れていた。
しかし、それも一瞬だった。
「いやあぁぁあああああああ!?」
また一人獣のように叫び、それからは地獄の始まりだった。
阿鼻叫喚の悲鳴が山に響いた。
ある女は全身から血を吹き出し、悶え苦しみやがて死に至る。
その光景を見た気の弱い青年は錯乱し、ああはなりたくないと思い自ら谷へと身を投げた。
子供を抱きかかえた女は大丈夫、大丈夫と子供に言い聞かせるが胸に抱いた子供が無残にも血に染まり絶命したのを見て発狂した。
「………………」
アネモネは瞑っていた目を開き、星空を眺めていた。
不協和音が響く辺りに一切の興味を抱くことなく見慣れた夜空をただ眺めている。
辺りが静かになるまで星々を見続けた。
人の声が聞こえなくなり彼女は起き上がる。顔や衣服には土や砂がこびり付いているが、かつて父と呼んでいたものが与えた暴行の痕はなくなっていた。
うつろな表情であたりの惨状を目の当たりしてゆっくりと歩み始める。
その先にはかつての両親が苦悶の表情で絶命している姿があった。
「お父さん、お母さん……」
寄り添って倒れている二人。
もう昔のように自分がこの二人と一緒にいることはなくなってしまった、と気づくが彼女の心には何の揺らぎもなかった。
両親だったものの頬に両手を添え、持ち上げた。ぶちぶち、と肉がちぎれる音とともに胴体から首だけが外れた。
子供の細腕でもたやすくちぎれた「それ」、父と呼んでいた者の首と視線を合わせ話しかけた。
「さっき蹴られた時、すごく痛かったんだよ?」
それだけ言うと、手を離した。地面に落ちた音が重々しく聞こえたが彼女は意に返さず、今度は同じように母親だった首を持ち上げた。
「お母さん、ロゥくんと幸せに暮らすね」
母の首から手を離し、地面を転がった。
そして、アネモネは自分の有様を見て表情を曇らせる。
「だいぶ汚れちゃった。ロゥくん鼻が良かったから匂いもわかっちゃうかな?」
服の肩口に鼻を近づけると土の匂いがする。
足元を見ると靴には泥と血が混ざり合った汚れがこびりついていた。
「そうだ、川で洗えばいいじゃない」
崖から身を乗り出す。
眼下には見えないほど深い闇が広がり、風と川の音が響いている。
「川を下ればロゥくんの家まで行けるし一石二鳥だよね」
誰に言うでもなく、そう呟くと彼女は真っ暗な谷底へと迷いなく踏み出した。
☆
ロゥは昨日の岩で火を焚きアネモネを待っていた。
しかし、夕方になっても彼女は現れず、夜が明けた。
「……あれ?」
これからどうしようかと考えていると、視線の端に映ったものに首を傾ける。
川に見覚えのあるものが流れていた。
魔力を右手に集中し、巨大な腕を形成すると川に漂うそれをつかみ取る。
幸い、岸からそれほど離れていなかったので魔力の腕を伸ばすことで触れることが叶った。
「アネモネ?」
川から引き上げたのはロゥと年の近い少女だった。
彼女の体は死体のように冷たい。しかし、胸は呼吸により上下し生きていることがわかる。
ロゥの黒い腕の中でアネモネは目を開いく。
「・・・・・・ロゥくん、私出てきちゃった」
彼女は簡潔に言った。声色は至って平然としていた。
それ聞いたロゥは悲しそうな表情になったが、すぐにいつも通りの笑顔に戻す。
そっとアネモネを下し、魔力を解放し黒い腕が霧散する。
「それじゃ、帰ろうか」
「うん」
「あ、その前に服乾かさないと」
頭から濡れ鼠になってしまったアネモネを見て出会った時と同じ状況がどこかおかしくて破顔する。
「そうね、また焚き火しなきゃだね」
「火なら昨日の夕方から起こしてあるよ」
二人で微笑み合い、岩の方へと一緒に歩いていく。寄り添い、手を握りながら家に帰ったら何を食べるかを話ながら。