1話 影武者
握って、開いて、持ち替えて──
黒髪の少女は白くて小さな手で、得物の持ち手部分を撫でた。
柄の部分には野球用のグリップテープが、ぐるぐると巻かれている。
彼女の得物は、先端が異様に尖った鋼鉄製の杖。それを二本、腰にぶら下げている。
どんなに乱暴に扱っても折れない、曲がらない。それこそが彼女──大倉 氷雨にとっての最良の武器だ。
氷雨の右隣では、まだ年端のいかない少年──川合 俊平が、小指で鼻糞をほじっていた。
彼にとっては退屈この上ない仕事だったのだろうが、高倉 美晴は、見逃してはくれなかった。
彼女は肘で彼の頭を小突き、ポケットからティッシュを取り出した。
「あんた、少しは緊張感持ちなさいよ」と俊平の無防備な態度を諌める。
氷雨たちがいるビルは都心のオフィス街からだいぶ離れた場所にある。
かつての繁華街だったこともあり、ビルの両隣にはスナックと居酒屋があり、道路を挟んだ反対側にはうらぶれた立体駐車場が建っている。
現在、このビルの応接室では、交渉が行われていた。
それも結果次第では、数万単位の人間が従順なお人形さんにされてしまうおそれのある、重要な交渉だ。
グレーを基調とした室内では、二人の男が向かい合わせに座っている。
一人は藤森 。金髪で少し伸びた髪をうしろで結び、普段滅多に袖を通すことのないベルヴェストのスーツを着用していた。
氷雨たちは藤森の身に危害が及ばないよう、護衛として彼の後ろに控えている。
そして藤森の正面に座しているのが、釘取 欣哉。
色素の薄い髪をオールバックにし、うっすらと見えるか見えないかぐらいの縦線の入ったダークスーツを着ている。
こちらも後ろに三人の護衛を控えさせている。
藤森の護衛たちとは違い、筋骨隆々とした不動の壁の如き男たちで、どんな痛みにも顔色ひとつ変えないであろう、厳つい顔面と無感動の目をしていた。
釘取は、顔の前で指を組み爬虫類を思わせる細長い目で藤森を見据えた。
「で、この私にどうして欲しいのかね?」
藤森は営業スマイルを浮かべ、とある質問をした。
「『ヘブリア』ってご存知ですよね」
「たしか、その薬物を摂取すると常人を遥かに凌ぐ肉体を手にできるらしいな、なんでもDNAとRNAに干渉して人体の構造そのものを書き換えてしまうとか」
藤森は営業スマイルを崩さず、首肯した。
「ええ、摂取した直後はいいんですけどね。のせいで、扁桃体が鈍くなるらしく、感情の起伏がまったく無くなってしまう。『人間には、その日暮らしの生き方は物足りない。私たちは壁を乗り越え、我を忘れ、逃避する必要がある』と言ったのは、オリバー・サックス先生だったかな」
「ああそれなら知ってるよ。『レナードの朝』の原作者だろう? 私は映画しか拝見していないが、“”は感動的だったな」
藤森は、ええ、そこはわたしも同意しますよ。と肯定したのち、声のトーンを落とした。
「ただ、貴殿方がばら蒔いているヘブリアについては、私共としては同意出来かねますけどね」
「はて、」
「そうお惚けになられると思いまして、証拠をご用意させて頂きましたよ」
藤森は封筒から資料を取り出し、釘取の前に差し出した。
「直接の売買は強盗、恐喝、振り込め詐欺と何でもやるチンピラ集団が取り仕切っていたみたいですね。売上の八割は、ほらこれが履歴です」
「」
「いや~、帳簿もなにもないから苦労しましたよ。でもリーダー格の生爪三枚と、耳とアゴのピアス三個を引きちぎったら、親切に教えてくれましたよ── ってね」
「おいおい、それじゃどっちがチンピラか分からねぇな」
釘取は呆れ顔で
「ヒーローやっても、腹は膨れませんからね」
「で、」
「勿論見返りもちゃんとご用意させて頂きますよ」
「具体的には」
「新しく出来た人材登録バンクはご存知ですか」
「ああ、たしか民間の と伺っているが」
難民対策として、を
「しかし、人材のクオリティーに難があるでしょう」
「いえいえ、」
「釘取さん、貴方の会社の売上規模でいったら、ざっと」
「かもしれませんな」
「では──」
「駄目ですな」釘取は藤森の言葉を遮るようにして否定した。
「」
「かねてより、していたドバイとシンガポールの足掛かりにもなるんですよ」
「確かに我が社としては願ってもない話ですが、生憎と関係を切るわけにはいかないのですよ」
「排除できるとしてもですか?」
「なら、もっと厳つい同行者を連れてくるべきでしたね」