49.別れの朝に会う散歩道は
「……来たみたいだな」
「はい」
短いクラクションが聞こえた。外の駐車場に紳士さんの車が着いたことを知らせる音。
カレンダーを確認する。三月十四日。明日から学校が始まる。そしてイヴとの別れの日。
「――海さん」
「ああ」
イヴの荷物もなくなった。見える思い出の消えた部屋を後にする。
外階段を踏む足音で刻まれるカウントダウン。地上が近付くにつれて実感する時間の終わり。
紳士さんが車の中から合図する。後部座席に乗せたものを差してくれた。
(紳士さん、忘れないでくれたんだな)
不思議そうなイヴを横目に、車の後扉を開けて目的物を手に取る。
あらかじめ待たせる許可はもらっておいた。紳士さんと会釈をかわす。おかげで今日を迎えられた。
(……よし)
それを後ろ手に後部座席から出る。まだイヴからは見えないように。
最後かもしれない、二人だけの時間。たくさん向き合ったのに、まだぜんぜん足りなくて。
イヴの表情の片隅には、寂しい心が見えていた。たぶん俺も、おんなじ顔をしてるんだろう。
「いったんお別れだな。イヴに会えてよかったよ。風邪ひくんじゃねえぞ。あと、鼻血とか落雷にも気を付けろよ」
「わたしも、一緒に生きられて楽しかったです。テストの赤点には注意してくださいね。抹茶プリン、おいしかったです」
二人だけが共有する記憶。大人になっても色あせないもの。もう少しだけ、おかわりしよう。
「イヴ。これ」
「?」
後ろ手に持っていたものをイヴに見せる。紳士さん宅の台所を借りて手作りしたもの。
「このマフラーのお返しだ。枯れない花、プリザーブドフラワー。抹茶よりも素敵だろ?」
リボンを添えた透明の袋。中に包まれているのは、小さな植木鉢に守られている花たち。
「わあっ素敵ですね。でも、なんでまた花が真っ黒なんですか?」
「ああいや、イヴといえば黒だからさ。枯れない花みたいに、いつまでも元気でいてくれたらなと」
「あー、わたしと花を重ね合わせてるんですね。なるほどなるほどぉー」
「俺の心理を解説するのはやめてくれ」
こんな時でもイヴの反応はいつも通りで。なんとなく安心できた。あとは大事に渡すだけ。
「ともかく自信作だ。受け取ってくれるよな?」
「ふふ、いいえ。せっかくですけど、おことわりさせていただきます」
「え」
なぜか拒否された。そんなに下手だったろうか。でも、イヴの考えは想像より優しかった。
「受け取ってしまうと、つながりがなくなるような気がして。また会う時まで、その子の面倒を見ていてほしいんです」
「……そっか。そういうことか。分かったよ」
「でも、海さんだけに任せるのもなんなので」
「ん?」
しゅるっ。イヴは俺の首からマフラーをほどいた。いつも自然に着てしまうお気に入り。
「この子を人質にしようかなと思います。返してほしかったら――その、また会いましょうね」
「……イヴ」
「幸せでした。あたたかい毎日でした。きっと戻ります。今日の続きを、海さんと描くために」
寂しそうだった表情は、明るいものに変わっていた。過去から未来まで、俺を変えてくれる笑顔。
「ああ。そいつの面倒は任せるよ。……充電切れには気を付けろよ」
「はい。海さんこそ、長い散歩はだめですよ」
静かに車に向かうイヴ。本当に、このままでいいのか。やり残したことがあるんじゃないか。
たくさんの言葉を伝えた。でもまだだめだ。俺が今日まで、照れてためらっていたもの。
「イヴ」
呼び止めた。イヴがゆるやかに振り返る。
「なんですか?」
そのまま近寄って、イヴの唇にキスを重ねた。
映画館の続き。ようやく叶えられた。言葉も大切だけど、それよりも伝わるのは行動だから。
「っ、ふ、ふいうちですね。びっくりするじゃないですか」
「す、すまんつい」
「ま、まあ素敵なキスだったのでいいですけど。また思い出が増えました」
しどろもどろな俺たち。恋人同士のくせにって笑われるんだろうか。
「そっか。ありがとう。落とし物だな」
「はい。その、いろいろ楽しかったです」
イヴの手から落ちたマフラーを拾って渡す。その行為が告げるのは時間の終わり。
「さようなら海さん。また会えますように」
「ああ。元気でな」
手を離す。なにか光るものがこぼれた気がした。ふり返る直前の、イヴの黒い瞳から。
イヴが乗った車の扉が閉まる。窓の反射のへただりのせいで、しずくの正体を確かめる方法はなくなった。
(……イヴ)
紳士さんの運転する車が離れていく。叫んだとしても声は届かない。
やがて車は見えなくなった。急に現実感が込み上げて、思わず自分の右手を見つめる。
(やっぱり……あれは)
手のひらに落ちていたのは、見覚えのない小さなしずく。心が残した、前向きになるための光。
不安もあるけど、きっと大丈夫。イヴは一人じゃない。俺だって、これからはきちんと気持ちを誰かに分けられる。
「いつまでも、ここにはいられないな」
家に戻ろうと考えた時、手のひらに白いつぶが舞い落ちた。ふと高い空を見上げる。
(雪だ)
晴れた空から降りてきたのは淡い白。季節の終わりを告げるように。
きっともう冬とはお別れ。次に会えるのは、今よりも少しだけ大人になってから。
ふたつの涙と重なった氷のつぶは、あたたかさとまじり合い溶けて、地面に消えていった。




