第九章
第九章
恵美子との間の葛藤は、この前の事件があってからは小康状態となっていた。
額の傷は出血の割に大したことはなく、恵美子自身も何事もなかったかのように振る舞っているのだが、当の加夏子本人がすっかりしょげかえってしまったのだ。
恵美子の額に貼ってある、やや大振りの絆創膏を目にするたびに心の何処かがチクリと痛み、バツの悪さから言われる事に素直に従ってしまう。
もとより活発であったが、誰かを憎んだり傷付けたりという感情とは無縁のまま育ってきた加夏子にとって、今度の出来事はショックであったのだ。
ワタシ、かわっちゃったんだ
歩けないからじゃない
喋れないからじゃない
もう戻れない
想いの蔦が絡みつき、捻れ、やがてまたひとつ心の牢獄を造り出す。
今日も、ひとつ
明日も、たぶんひとつ
病院生活が始まって以来、彼女が編み続けてきた蔦の牢獄の数がどれ程のものか、恵美子はもとより周囲の誰一人として知る術は無かった。
もし、加夏子の闇を理解する者がいるとしたら、それは…
いつにも増して憂いの色を濃く宿した顔をふと上げて加夏子が恵美子をじっと見た。
「ん? なに」
彼女の視線に気がついた恵美子がクリップボードにペンを添えて差し出すと、細い指がさらと短い文字をしるす。
最近は筆談すら億劫になりがちな加夏子にしては珍しく急いた様子に興味をそそられ、恵美子はボードに目をおとした。
ジュンはどこにいるの
そのひとことだけ。
ボードの向こうに、訴えかけるようなまなざしをひたと据えた加夏子が静かに座っていた。
この娘には、ここは牢屋なのだと恵美子は瞬時に理解した。
ただ仲良しに会いたくなったんじゃない、
あの王子サマは、彼女の閉じ込められている部屋の鍵を確かに持っているのだと。
看護師としてのプロ意識が、恵美子にしらを切らせた。
「ジュンって… あぁ、堀川殉クンね。彼なら居ないわよ。一時退院で帰宅中ね」
事務的に返答すると、加夏子は酷く落胆したように車椅子を窓の外へと向けた。
外は晴れてはいなかった。
(続く)




