第八十六章
第八十五章
くたびれた長靴が乾いた路面に足音を吸い込ませていた。色褪せたウィンドブレーカーの襟元に下げたタオルで汗を拭いながら、ニコニコと愛想良く話しかけてきたのは初老の男だった。
「観光ですかの、車椅子じゃあ難儀じゃろうに」
「…こんにちは」
怪訝そうな顔で、それでも礼儀正しく挨拶をした加夏子をジロジロと眺め回した男は、顔を上げて今度は殉の方を向いた。
「目が見えんのかいのう、こっちも難儀じゃ」
「…ハァ…」
殉は殉で、毒気を抜かれたような声で返答する。
勿論、それだけではなかった。
「おじいさんは漁師?」
「ホウホウ、こりゃまた勘のいい子じゃのう。判るんけ?」
「聞こえるんです。ザバァ〜ンザバァ〜ンて波の音…ヒュンヒュンいってるのは潮風…船で鳴ってる風の音なのかな?」
殉は男の”心の音”を聴いていた。
「ホウホウ、これはこれは…」
初老の男は嬉しそうに目を細めた。幾条にも刻まれた皺の中に目が埋没してしまったようになる。
「めしいたモンには時々、わしらにゃあ見えぬもの、聞こえぬものを感じる奴がいるが、あんたもそうなんかのう…珍しい事もあるもんじゃて。この間はこんな小さな子じゃったが…」
男の最後の言葉に、二人は同時に反応した。
「小さい子!?」
「ちいさな子ですって!?」
「オヤ、どうした。顔色が変わりましたぞ」
初老の男が少し驚いたように言った。
「僕たち観光なんかじゃなくて人を捜しにきたんです。小学生くらいの女の子…もしかして見かけたんじゃないですか!知ってたら教えて下さい!!」
殉は声のする方へ両手を伸ばした。
その手が空を切る。
男の身長は150cmもなかった。
思いもかけず力強い手が、殉の両手をガッシリと捉えた。
ゆっくりと肩に置く。
「随分と深刻そうじゃの。ワシでいいなら手伝っちゃるけん。あのチビちゃんを捜しとるのか?」
「あの子は…碧ちゃんは病院から連れていかれたんです。早く連れ戻さないと大変な事になる…おじいさん、知ってる事があるなら教えて下さい!」
「ワタシも…あの子は妹みたいなものなんです。御願いします!」
加夏子も男に向かって頭を下げた。
男が照れくさそうに首筋を掻いた。
(続く)