第七十八章
第七十八章
十畳のロフトは、ひとりで暮らすには広すぎた。
ここ何年かは家よりも病院にいる時間のほうがどんどん長くなってきていた。
そして、一時帰宅するたびに本当に少しずつだが体力の低下を感じるようになってきている。
だだっ広い部屋に置かれた大型水槽、その中にいる数匹の金魚達が殉の姿を見つけて水面まであがってきた。
手さぐりで袋を取り、僅かに傾けて少量の餌を蒔く。
入れ過ぎは水質を悪化させるので厳禁だった。
入院中は大家に面倒を見てもらっているので、殉は水槽の汚れには人一倍敏感だった。
手を差し込み、ガラスをなぞって苔の状態を測ってみた。金魚達が甘えるように殉の指をつつく。
ふっと殉が微笑んだ。
おまえたちが元気だと、僕もうれしいよ
今、水槽に居るのはもう三世代目の魚達だった。
この子達が星になる頃、僕はまだここにいられるのだろうか…
机の上から鉤をとり上げると、薄手のニットを着て殉は部屋を後にした。
◇
港に面した公園は、すっかり闇の底に沈んでいた。
地元では有名な観光スポットだが、平日という事もあり、人影はアベックがまばらに居る程度であった。
殉は杖をつきながら、今は碇を降ろして海上ホテルとなった客船の前までゆっくりと歩いてきた。
潮風が少し冷たい。
すぐそばに気配がした。
「(…何処から来ん 何処へか去らん…)」
懐かしい”声”。
「…おかえり、兄さん。久しぶりだね、本当に」
「殉。元気そうだな」
杖を持つのと反対の手がしっかりと握られた。力強く、カサカサと乾いた、でも暖かい手。
「今度は随分、長かったね。何処へ行っていたんだい?」
「中東…」
ボソリと殉の兄が呟いた。
兄の心の中に異国の言葉が渦巻いているのを殉は聞いた。
その多くが苦悶の叫びであることに気付いた彼は、微かに眉をしかめて言った。
「また戦いに行ってきたんだね。人が…いっぱい死んだんだ」
「今度の戦いはキツかった、色々、な」
手を持ち上げて顔を触らせる。
殉が息を呑んだ。
「右目をなくした。あと一つでお前と同じだ」
「烈にいさん…」
離れたベンチで居眠りをしていた男が、帽子の隙間から二人の方をじっと見ていた。
柴田であった。
(続く)