第七十二章
第七十二章
まるで夏本番じゃないか
まだ5月だってのに、冗談じゃないぞ
くたびれた背広を手に、彼は病院へ向かう長く緩やかな坂道を歩いていた。
吹き出した汗を黄色く変色したハンカチで必死に拭いながら、こんな坂の上に病院を建てた関係者全員を胸の中で呪っていた。
あの事件を担当した時から1年以上も経つというのに、この坂を登るのはこれが二度目…たったの二度だ!いくら捜査本部が異例の短期間で解散したからといっても、いくら自分が当時はペーペーだったからといっても、ガイシャに会ったのがたったの一回で、それも先輩の御供で話すらしてないなんて、これはもう刑事の仕事なんかじゃない!
形の上では継続捜査となったが、実の所は迷宮入り決定だ。今じゃ署内で話題になる事すら稀になっちまったあの事件を、俺は暇を見つけてはコツコツと調べ続けてきた。
血の滲むような思いをして、念願叶ってやっと刑事になれた、その初めての事件であんな挫折感を味わされて黙って泣き寝入りなんぞ、俺は絶対にしないぞ。
デカ人生の始まりでけっつまずいた、この借りは必ず返してやるからな…
男の決意はそれ自体が既に呪詛と言ってもよかった。
病院というより宮殿の入り口と言った方がふさわしいような豪華な正門をくぐると、広々とした中庭には患者や見舞いの客、職員達がそれぞれ思い思いに時間を過ごしていた。
目的の病棟を探しあぐねていると、丁度あちらから白衣に身を包んだ男が歩いてきた。
ガッシリとした体躯。セパレートタイプの白衣。ひとめで医者でなく看護士か何かだと判る姿だった。
「すみません、B棟ってのはどっちになりますかね?」
聞かれた中年男が怪訝そうな目でこちらを見る。
「あぁ、怪しいモンじゃありません。ホラ」
警察手帳を見せる。
男の顔に過剰な緊張が走ったのを、彼は見逃さなかった。
「XX警察署の柴田ってモンです。今日は折り入って話を聞きたい人がいてね、久しぶりに訪ねてはみたんですが…」
「B棟ならそこの角を曲がって左だ。行きゃあすぐ判る、じゃ」
中年男はそそくさとその場を後にした。
あの男、どこかで…
軽い引っかかりを感じながら、柴田刑事はB棟を目指して歩き始めた。
(続く)