第六十五章
第六十五章
長い牙
鋭い牙
曲がりくねった牙
汚れ欠けたノコギリ状の牙
ありとあらゆる牙が殉の身体を貫いていた。
ザグザグと咀嚼音が鳴る。
殉の両足は噛み砕かれ、胴体はひと噛みごとに潰れ、気味の悪い腸をはみ出させていた。
生きながら喰われる激痛に絶叫し、両腕で滅茶苦茶に”邪悪な口”を叩き続ける殉を、”魔眼”が笑いながら見下ろしていた。
精神世界で身体を傷付けられるのは、心を直接破壊されるのに等しい。殉が廃人と化すのは時間の問題でしかなかった。
だ…め…だ…
………
……
…
爪の先程残っていた殉の意識が、微かに響く音を聴いた。
人…おんなの…ヒト…の…こえ…
それは少しずつ、だが確実に大きくなっていった。
”邪悪な口”の動きが、声の広がりと共に鈍くなってくる。
やがて声はデュエットのように高く低く響き始めた。
細く通った女性の声。
野太い男性の声。
声は、名を呼んでいた。
…
……
………ちゃ〜ん…
…カナちゃ〜ん…
カナちゃあああ〜んっ!!
…
……
………こぉ〜…
…加夏子ぉ〜…
かなこぉぉぉ〜!!!
”邪悪な口”の動きが止まった。
胸から下を挽き肉にされた殉は、牙の端に引っかかった状態でダラリと垂れ下がっていた。
生暖かい液体が顔を打ち、僅かに残った意識が戻る。
ひどくしょっぱい。気力を振り絞り重い瞼を持ち上げた。
”魔眼”が、泣いていた。
巨大な眼球に、涙があとからあとから溢れ出しこぼれ落ちてくる。
どしゃ降りの雨に打たれるように濡れそぼちながら、殉は”魔眼”に向け両手を差し上げた。
痛みは消えている。
暖かい…
”邪悪な口”が消え去り、虚空に横たわった殉は元の姿に戻っていたが、彼はそれすら気付いていなかった。
奇妙な至福感に包まれ、ほんのりと笑みを浮かべながら、それに手を差し伸べる。
”魔眼”は、いつしか小さな光の点へと変わっていた。
小刻みに振動しながら、右へ左へ宙を漂っている。夏の夜の蛍のように、はかなくフラフラと飛び回る光。
「扉」だった。
戯れるように光を追い、殉が両の掌にそれを包み込むと、暗黒の風景に変化が生じた。
自分が遂に辿り着いた事を、彼は知った。
(続く)