第六十四章
第六十四章
薄暗く笑いを浮かべている加夏子を見た紗季子は、階下へ向いかけた足を止めた。
「どうした?!早く病院へ電話を!!」
「だめよ…あなた…だってこれじゃ…」
棒のように立ちつくしながら、紗季子は加夏子が目覚めたあの日の事を思い出していた。
アイツ、ヤッツケタ…
焦点の定まらない目で虚空を睨みながら、加夏子は今と同じ笑みを浮かべ、そう一言呟いたのだ。
あの時と同じだ。
ここで止めたら、加夏子は今までと何も変わらない。何一つよくなんかなりはしない。
躊躇いがちにベットの方へ向きを変えると、紗季子は跳ね回る殉と恒彦の身体の上に覆い被さった。
夢中で夫のシャツの端を掴んでしがみつく。
「何やってんだバカ!いいから電話しろ!」
「駄目なの!彼じゃなきゃ駄目なのよ!ここで駄目ならこの先いつまで経ってもカナはダメなままなの!!今しかないのよぉー!!」
親子亀のロデオよろしく上下左右に揺さぶられながら、それでも紗季子は恒彦の背から落ちなかった。
カナちゃーん!
カナちゃーん!!
カナちゃぁぁぁーん!!!
愛娘の名を必死になって連呼する。
殉を抑えつける手を離すに離せず、紗季子を背中から降ろす事も出来ない恒彦も、いつしか彼女と一緒に娘の名を叫んでいた。
加夏子ー!
かなこぉぉぉ〜!!
…少しずつ、少しずつ殉の動きが収まってくる。
やがて静かになった。
「どうにか…収まったようだ、な」
「えぇ…」
肩で息をしながら、恒彦は紗季子を背から降ろした。
グチャグチャに乱れた髪をうなじに押さえつけ、紗季子は殉を見下ろした。
彼の顔からは苦悶の表情が消え、口元には微かに笑みさえ浮かんでいた。
すぅっと両手が持ち上がり、宙に向かって差し出される。
加夏子の方へ向き直ると、今度は逆に彼女の額に深い皺が走っていた。
イヤイヤをするように首を左右に振る。
「なにが…起こっているのかしら」
「私も知りたいよ…」
何か飲み物を持ってきましょうと言い、紗季子は一階へ降りるとバッグから携帯電話を取り出し、病院の番号をプッシュした。
「もしもし、夜分にすみません…その、娘の事で至急、連絡をとりたい人がいるんです。えぇ…お願いします」
名前を告げると、紗季子は電話を切った。
(続く)