第五十六章
第五十六章
「あなた、本当にいいの?」
オンザロックのグラスを差し出しながら、清水紗季子は夫の恒彦に聞いた。
ついさっき家を訪ねてきたのは、あの夜に血を吐いて運ばれていった少年であったのだ。
その事も紗季子を驚かせたが、夫がまるで予期していたかのように彼を招き入れた事が、彼女には驚きと同時に不審でもあった。
「お前には話していなかったが、今夜彼がここを訪ねてくるのは予定通りの事なんだ」
「予定通り、ですって?」
「あぁ。この間見舞いに行った時、加夏子のリハビリ担当に相談を受けたんだ。お前も会った事があるだろう、トレーナーの久我さんだよ」
酒のつまみを皿に盛り付けていた紗季子の背がぴくりと動いた。
「ん? どうかしたか」
「いえ、別になにも…」
表情を変えず、紗季子は恒彦の前に皿を置いた。
「彼とじっくり話したんだ。加夏子が何故、あんな風になってしまったのか。何故今、あの子の暴発が収まりつつあるのか…」
「それであのひと…久我さんは何て?」
「彼もあの少年から聞いたのだそうだが、要は加夏子が自分で恐怖に打ち勝ったって事らしい。その代わり他人への強烈な不審心を抱え込んでしまったと。あの夜、堀川というあの少年が吐血したのは加夏子の『攻撃』をモロに受けてしまったのが原因らしい。そしてそれは加夏子の誤解から生じていると。それを解かねば、根本的な解決にはならないと彼は言っていた」
「でも今は良くなっているのじゃありません? 確かに少し元気が無いみたいだけど、噛みついたり引っ掻いたり、殴ったりもしないじゃないですか」
「あの子が心を開くきっかけになったのは、同じ入院患者の女の子と出会ったかららしい。だがな、その子もあの少年と同じような力を持っているようなんだ。何と言ったかな… 確かサイコなんとかだったか…」
「サイコダイブ」
「それだ。加夏子の心の根っこの部分を治すには、どうしてもその力が必要だと。そしてそれは、あの彼でなくてはならないと、そう言っていたんだ。私はその言葉を信じた」
「そうですか… あのひとがそんなことを…」
ほっそりとした指で胸元を包むようにした紗季子が、仰ぐように二階を見た。
加夏子と殉が向かい合っているであろう部屋を。
(続く)