第五十五章
第五十五章
階段を登る重い足音がすると、ドアをノックして恒彦が顔を出した。
「カナ、電話だぞ。堀川君から」
「え…」
電話の子機を渡すと、恒彦は部屋に入らずドアを閉めた。
加夏子は車椅子のホイールを押して窓際まで進むと、おずおずとそれを耳に当てた。
「もし…もし?」
「やぁ」
彼女とは対照的に屈託無く響く声。
「ヤァって…こんな時間になに?」
「チョット、ね。話があるんだ」
「ワタシにはないよ、別に」
戸惑いながらも、加夏子は拒否の態度を崩さなかった。
「明日、会えないかな」
「明日は病院に戻るの。他にやる事も無いけど、わざわざあなたに会いに行く理由も無い」
「君は僕と会わなきゃならない、会って、ちゃんと話をしなきゃならない。君自身の為に」
「ワタシのため? なにそれ、あなた何様のつもり?! なにしようっての!」
「何もしない、何もしないよ。でも君は知らなきゃならないんだ、あの夜、自分に何が起きたのかを」
「そんな必要ない、あなたは助けてくれたかも知れない、けどそれだけじゃない! あなたはワタシに何かした、お得意の心を覗くいやらしい力で。そうよ…あなたは私を汚した! 誰も来ない、誰の邪魔も入らない暗い洞穴みたいな場所で、あなたはワタシを犯したの! カラダも心も覚えてる! 虫ずが走るのよ!」
「聞いてくれカナちゃん…」
「気安く呼ばないで! 言ったでしょう、ワタシに近づかないでって!!」
叫ぶように言うと、加夏子は電話を切った。
荒い呼吸を整え子機を膝に置くと、加夏子は薄いカーテンに覆われた窓を暫くの間、ボンヤリと眺めていた。
ふと何かを感じ、カーテンをめくってみる。
二階から見下ろす道路の街灯が、細い影を作っていた。
殉
ゆっくりと手を持ち上げる彼を、路面の影が真似る。
また電話が鳴った。
「…いたんだ、ずっと、そこに」
「みーちゃんが言ってた。おねえちゃん、淋しいんだよって。同じなんだ、あの子と僕は」
「おなじ…」
「あの子にも聞こえたんだよ、カナちゃんの“声”が」
「それじゃあワタシ…」
「みーちゃんの気持ちが届くなら、僕だって。大丈夫だから」
行くよと言って、殉は携帯を切った。
部屋の外で聞いていた恒彦が、足音を潜ませて階段を降りていった。
(続く)