第四章
第四章
溜め息をひとつ漏らすと、医師は恵美子に向き直った。
「あの娘の場合、肉体の損傷時の状況が同時に強烈なトラウマとなってしまっている。強い自己暗示とでも言えばいいか。 そのせいで現状が常態化されてしまっているんだ」
「現状の…常態化?」
「判り易く言うとね」
彼は机の上にあったジッポをとりあげ窓枠に置いた。
「車が走ってくる。たまたま道を渡っていた人が運悪く跳ねられたとしよう」
窓枠にジッポを滑らせ、二本の指で人に観立てた左の手を弾いてみせる。
「バンッ! 車はそのまま走り去っていった」
「ヒドイ… 轢き逃げですね」
「その人は幸いにして命を拾った。目立った障害もなかったので比較的早く日常生活に戻る事が出来たんだ。でも後遺症は思わぬ形で現れたんだよ」
「?」
「その人はタクシーの運転手だったんだが、二度と元の仕事には戻れなくなってしまったんだ」
「それは… 車への恐怖心が生まれた…とかいう話なのでしょうか?」
「イヤ、そうじゃない。運転が出来なくなったんだよ。それも手足が動かなくなるなんて生易しいものじゃない。意識を失なってしまうのさ、車種、座席位置、状況や誰と一緒かなど全くお構いなしに、乗車した途端、深い昏睡状態に陥ってしまうのだ。丁度、事故直後にそうだったようにね」
「そんな事って… その人は健康面に問題は無かったのでしょう?」
「脳にも躰にも異常は見つけられなかった。医学的には何の問題も無い健康体だったよ。だが、症状は100%再現された…」
ジッポをポケットにしまいながら、医師は再び窓の外に視線を移した。
「例え話かと思ってたのですが。実際にその方を診察されたのですね、先生は」
「あぁ。結局は原因も治療法も、何ひとつ判らずじまいで終わってしまったがね」
医者なんて無力なモンさと自嘲気味に笑い、彼は遠くに見える二人を目で追った。
「精神科の友人がね、自己暗示の一種じゃないかとアドバイスしてくれたが、お手挙げだった事に変わりは無い。強烈な経験は、その強烈さ故に身心に焼き付いてしまう… あの王子サマにどれ程の力があったとしても、“自分はこうである”と当たり前のように信じ込んでしまっている相手に何が出来るとも思えないよ、僕には」
「でも、何か他にいい治療方法があるんじゃないですか? ずっとこのままなんて…」
医師が首を振る。
その目は、二人をいつまでも見つめ続けていた。
(続く)