第三十一章
第三十一章
殉は自分の耳を疑った。
加夏子の口から、こんな下品で強烈な言葉が発せられた事が俄かには信じられなかった。
彼の目がもし見えていたなら、現実は更に過酷なものであったろう。
つぶらな瞳は裂けるが如く釣り上がり、半開きの口からは牙が生えているかのように歯がゾロリと覗いている。
目尻や口許には老婆のような皺が幾本も走り、涎まで垂らしていた。
赤味ひとつ差さない顔の白さだけが、残された彼女の痕跡だった。
耳障りな高音の叫びを喉から噴き上げ、加夏子が殉の襟首を下からわし掴みにした。
「なっ!?」
そのまま引き寄せ、顎に額を思い切り打ちつけた。
もんどりうって吹き飛んだ彼を血走った双眼が見下ろす。
パックリと切れた額からダラダラと血が流れていた。
仰向けに倒れていた殉がノロノロと身をよじり、落葉だらけになりながら手と膝で躰を起こした。
「…どう…して…?…」
何が起こったか理解出来ぬまま、彼の手はガサガサと落葉の中を掻き回した。
コ・レ・カ・イ・?
いつの間にか殉に手の届く所まで車椅子を動かしていた加夏子が、右手の白く長い棒をヒラヒラと振ってみせた。
殉の杖だった。
ビシッ!!
足許に蹲る殉へ向け、頭といわず躰といわず杖を降り下ろす。
狂ったように何度も何度も杖を叩きつける加夏子の目には、異常な光が爛々と灯っていた。
折り畳む事を前提に作られた盲人用の杖は加夏子の猛打にも折れず、かえって鞭のように殉の躰に食い込み、無数の打撲痕を刻んでゆく。
「やめて、止めるんだカナちゃん! こんな…どうしちゃったんだっ!?」
遂に杖の先端が砕け散った時、殉の右手がガシッと白い凶器を掴んだ。
涎を撒き散らしながら、加夏子がその手に噛みつく。
ブシュ
くぐもった噴射音が聞こえると同時に、白眼を剥いた加夏子が車椅子に倒れ込んだ。
「エクソシストの時間は終りだよ、お姫サマ」
片手に高圧噴射式の注射器を提げた医師が、車椅子の背後に立っていた。
「…だれ?」
「大変だったね〜堀川クン。だいじょ〜ぶかい?」
医師は殉に、精神科の九十九だと名乗った。
(続く)