第三章
第三章
病棟に隣接する本館の三階。開け放った窓から下を眺めている医師がいた。
「何か面白いものでも見えまして、先生」
カルテを整理しながら、若い看護師が聞いてくる。
「ん…あぁ、イヤ、別に何が見えるという訳じゃないんだが。チョット、ね」
「どうせまた悪い虫が騒ぎ出したんじゃなくって。この間も先生ったら“今度B棟に入院した若奥さん、精密検査が必要だっていうからウチのほうへ来ないかな〜?”って今にも涎を垂らしそうだったじゃないですか」
白衣の医師が思いきり顔をしかめる。
「涎はひどいなぁ、せめて涙を流して…位にならないかね?」
「余計にアヤシイです」
軽く微笑みながら、医学雑誌の束を医師に渡す。
「今月号、先生の論文が載っているんでしょ? オメデトウございます。ちゃんと御自分の目でお確かめになって下さいね」
「自分で書いた論文だぞ、何でいちいち読み返さなきゃならないんだ」
「成果の確認です」
「目出度いと思うなら、今度ふたりで御祝いしないか? 横浜に素敵なレストランを見つけたんだ、夜は港の灯りが綺麗で…」
看護師がクスリと笑った。
「謹んで御遠慮させてもらいます」
「そんなぁ! キヌちゃ〜ん」
「気持ち悪い声を出さないで下さい。それに、その呼び方は止めて下さいと何度も御願いしましたよね? 私の名前は衣笠恵美子、せめてエミちゃんと呼んで下さいませんか」
「呼び方変えたら朝まで付き合ってくれるかい?」
「フ・ケ・ツ」
にべもなく誘いを断った彼女が何気無く窓の外を見た。
「アラ、あの子たち」
「そうなんだ。さっきからスロープで立ち話を… しているように見える。だが、なぁ」
「彼女、確か歩行障害と一緒に…」
「失語症を併発している。よほど怖い目に会ったのだろう、可哀想に。 相手は通り魔だったらしいが」
「…」
「彼が話し掛けるのは珍しくないんだが、ちと相手が悪いな」
「エッ?」
恵美子が理解出来ないと言うように首を傾げる。
「不思議な少年でね。あぁやって接触をもつ事で今まで何人もの患者を全快に導いてきたんだ。僕ら医者連中は密かに彼の事を“幸福の王子”と呼んでいるくらいだ。だが…」
医師が表情を曇らせる。
「彼女は無理だ」
「どうしてそう思われるのですか?」
「それは…」
医師が言い淀んだ。
(続く)