第二十三章
第二十三章
風などないのに、微かに揺らいでいるように見えた。
加夏子の記憶が造り出したその男は、
痩せた長身
黒衣
切長の目
酷薄な唇
手に提げた刀
それ以外の細部は全てぼやけ、周囲の闇と交わるかのようにディテールがはっきりしなかった。
時折、男の周囲が光る。
青、赤、黄…
花火のような殺奈の光の中に、幾つもの光景が浮かんでは消える。
全てが、目の前に立つ男の映像だった。
喉にわだかまる呼気の塊を殉は飲み込んだ。
彼は盲目のままこの世に生を受けた。生身の目で世界を見た事が無いと加夏子に語ったのは嘘ではない。
だが彼は、この世界を全く“視た”事が無い訳ではなかった。
ごく稀に、“声”と同じく他人の視覚から情報を得る事があったのだ。
勿論、当たり前の風景では無い。
自分のものではない目… 他人の意識やその状態…視覚以外の五感から流れ込んでくる様々な情報… それらが幾重にも重なり混じり合った、歪んだ世界像だ。
何の前触れも無しに頭に浮かぶ世界の姿を、幼い頃から今日まで、彼は嫌悪してきたと言ってもいい。
こんなに醜く歪んだ世界を直視しなくてよい自分の境遇に、密かに感謝すらしていた。
そんな中で、殉が鮮明に覚えている数少ない映像の一つが、唯一の庇護者であった兄の姿だった。
弟に見せるべく、鏡の前に立ち微動だにせず自らを凝視する兄の姿を、彼は尊敬と羨望と共に心の奥深くに刻み込んでいたのだった。
今、目の前に立つ男の姿は、細部こそはっきりしていないものの彼の兄の姿に余りにも酷似していた。
何よりも切長の目に宿る強烈な意思の光が、それが長らく会っていないたった一人の彼の肉親である事を殉に確信させていた。
判らない… あれは確かに兄さんだ
でも… でも…
嘘だ
「兄さんが… 兄さんがカナちゃんをこんな目にあわせたっていうのか… 嘘だっ!」
男が薄く笑う。
それは殉の知る、孤独と慈愛を背負った優しい兄の笑みでは決してなかった。
乾いた、狼の目。
「お前は居ない、此処にも、この外にも! お前は僕の兄さんなんかじゃない! お前はカナちゃんのなかに潜んで、心を… 魂を食い尽そうとしている… 食人鬼だ!!」
男の姿が一瞬、大きく揺らいだ。
(続く)




