第十三章
第十三章
エアコンが程良く効いた車内は快適だった。
加夏子は後部座席で身を反らせ、遠ざかる病院の建物をいつまでも見つめていた。
「カナちゃん、やっと病院の外に… うぅん、家に帰ろうって気になってくれたのね。病院から連絡があったとき私、嬉しかった」
助手席で加夏子の母、清水紗季子が白いハンカチを膝の上で握りしめながら呟きかけた。
品の良い藍色の和服が、小さな躯と小さな声を包んでいる。
「…この一年、どれだけこの日を待ったか。ねえアナタ」
ハンドルを握る男は、加夏子の母とは対照的に威丈夫の巨漢だった。
加夏子の父、清水恒彦はそのいかつい体躯からは想像出来ない優しく弾んだ声で言った。
「あぁ、パパはなぁ、もう嬉しくってウレシクって、昨日の夜なんかロクに眠れなかったんだぞ! 今夜はカナの大好きなカルボナーラだ、ママが腕によりをかけて作ってくれるからな」
後ろを振り向きはしなかったが、彼の声は喜びを隠そうともしていなかった。
加夏子はまだ後ろを向いたままだ。
「カナちゃん、ずっと病院の方を見てるのね。さっき見送りに来てくれてたコ、仲良しなの? もしかしてボーイフレンドなのかしら?」
「よさないかサキ、カナだって年頃なんだ、ボーイフレンドの一人や二人いたって不思議じゃないだろ、ましてや長い病院生活だ、色々話したりする同い歳の友達だって出来るさ、ナァ」
前席で両親が話し続ける間も、加夏子は一度たりとも前を見ようとはしなかった。
まるでそこには誰も居ないかのように。
まるで世界が自分一人の呼吸しか許していないかのように。
まるで…
蛇にいざなわれ、楽園を追われたイブのように。
それでも彼女の両親は話し続けた。
絶え間無く、途切れることなく。
やがて完全に病院が見えなくなると、加夏子は初めてゆっくりと前を向いた。
車内を沈黙が包み込む。
加夏子は静かに、静かに微笑んでいた。
(続く)