第十章
第十章
昨日の陰欝な空が嘘のような快晴であった。
湿度も低く、肌に触れる空気がサラサラと心地よい。
天気の良い日はいつもそうしているように、加夏子は詩集を膝に、中庭の木陰へ車椅子を停めていつものように朗読を始めようとしていた。
そういえば
ジュンと初めて会った日も、こんな気持ちのいい風が吹いていたっけ
たったの1週間、それっぽっちの空白がひどくもどかしく、腹立たしくもあった。
一時帰宅って、ジュンの家には誰もいない筈じゃない、ひとりぼっちの家に帰って何があるっていうの? ここならワタシだっているというのに…
理不尽な想いであるのは判っていた。彼にだって家に、病院ではなく自分の家に帰りたいという気持ち位あっても当たり前だと頭では理解していた。
それでも今はジュンに会いたい… 会ってワタシの“声”を聞いて欲しい… 話を聞いて欲しい… いっぱい、ウンとイッパイ…
背後から草を踏む音がした時、彼女は何故か願いが聞き届けられたと思ってしまった。
ジュン
車椅子のホイールを勢いよく回し、期待を込めて後ろを振り向いた。膝の上から中原中也の詩集が落ちる。
「よぅ! いい天気だな、嬢ちゃん」
笑いながら近付いてきたのは、いつもリハビリの訓練に付き添っている中年のトレーナーだった。
近くまで歩いてくると、彼は加夏子の足許に落ちた詩集を拾い、軽く叩いて土を落とした。
「中也か、若いのに随分屈折した詩を読むんだな」
屈託なく話すその男が皆から銀さんと呼ばれていた事を加夏子は思い出した。
「“在りし日の歌”なら俺も読んだ事がある… もっとも嬢ちゃんと違って、初めて読んだのは四十を過ぎてからだけど、な」
かなしい心に夜が明けた
うれしい心に夜が明けた
野太い声が、ゆっくりと一編の詩を詠う。
加夏子がハッと表情を変えた。
その詩の題名は、
『青い瞳』
「嬢ちゃんが誰を待ってるか、見当はつくよ。俺達は躯を直す手伝いは出来るが、それ以外はサッパリだ、悔しいがあの坊やにゃ敵わん」
銀さんの指さす方へ目を向けると、人影が一つ、陽炎に揺られながら近付いてくるのが見え」。
「ヤァ」
1週間ぶりの、あたたかい笑顔がそこにあった。
(続く)