序章
序章
柔らかな風…
肘掛けに添えた右手の甲を、ふぅと撫でて遠ざかる。
手をかえして、通り過ぎた風を指先に感じてみようとした。
もう、いない…
まだ幼さが残る、端正だが寂し気な横顔がほんの少し表情を曇らせる。
病院の中庭は、よく晴れた青空に誘われたように沢山の人が芝生の散策を楽しんでいた。
彼女の側には誰も居ない。
陽射しを避けるように木陰に車椅子を停めて、うつむくでもなく、遠くを見るでもなく、一点の絵画のように静止した彼女の姿は、他者との繋がりを一切拒んだ者の孤独が色濃く張り付いていた。
膝に載せた詩集のページを、ほっそりした指先が戯れるように捲ってゆく。
大鷲が首をさかしまにして空を見る。
空には飛びちる木の葉も無い…
高村光太郎の『苛察』を彼女は読み始めた。
淀みなく詩を朗読する彼女の脇を通り過ぎる人はだが、誰一人振り向きもしない。無関心というにはあまりに異様な光景であった。
まるでそこに誰も居ないかのような人々の反応…
彼女の声は誰にも聞こえなかった。
軽く引き結ばれた唇は少しも動いていない。
彼女は口をきけなかった。
蝉の声が響きを増す頃になると、詩を読むのに疲れた彼女は車椅子を動かして病棟の方へ戻り始めた。
ワタシの声…だれにも聞こえない…
どんなに詩を読みあげたって、だれも…
当たり前、か…
汗ばんだ小さな手でホイールを回し、ゆっくり、ゆっくり、舗装のゆき届いた路を進んでゆく。
中庭から病棟の入口に向けては緩やかなスロープになっていて、力の弱い彼女はいつも帰りに苦労していた。
リハビリを兼ねてワザと平坦にしていないらしいのだが、患者達には不評であった。
いつもより多く外に居たせいか、入口まであと少しの所で疲れて止まってしまう。
ホイールはもうどうやっても動きそうになかった。
どうしよう…
どうでもいい…
どうしよう…
小さな葛藤が、愛らしい眉間にひとすじの皺を作った。
ガタン
いきなり車椅子が前に動く。驚いて振り向いた彼女の目に、逆光でシルエットになった人影が映った。
車椅子のグリップに両手を添えた少年がニコリと笑う。
誰?
蝉が増々やかましく鳴き盛っていた。
(続く)