先輩と後輩の場合
学校の放課後、一年二年の部活をしている声がこの図書室まで微かに聴こえてくる。
机の上の参考書やノート、電子辞書やなんやかんや全部並べて朝から勉強。
バレンタイン?何それ、おいしいの?きっと辛い食べ物なんだろう?
「先輩」
この図書室にいるのはもう俺か司書の先生しかいない。
俺はこの声の主を知っている。
かつて所属していた文芸部のたった一人の後輩だ。
去年は残念ながら部員が一人も入部しなかったため、今年の春が来る頃には桜の花びらよりも先に散って消えてしまうことだろう。
がしかし、現在の文芸部は彼女一人でも活動中であり、元部長の俺から見ても優秀な後輩であることは、間違いない。
「これから部活か?」
「いえ、今日は用事を済ませたら帰るつもりです」
「ふーん、俺もそろそろ帰ろうかなぁ」
ここ最近、肩や腰が痛くなっているのは俺だけではないと思うが、流石に疲労が溜まってきて、つい、欠伸も出てしまう。身体を伸ばして色んなところを柔らかくしていると、いつもと同じように後輩が話しかけてきた。
「先輩、渡したいものがあるんです」
「まさか、…本じゃないよな?」
俺たちは本で生きている人間だ。毎日のように活字の無限の世界に入り込み、ぺらぺら捲っては一喜一憂している。そんな人たちなので今の俺(受験生)には一番の麻薬であり、非常に濃厚な甘い香りのするスイーツにも等しい。
本が読みたくて毎日泣きながら参考書のつまらない文章を読んでいるというのに、後輩は俺の我慢を無駄にしようというのか。
「本ならいらないぞ、今ダイエット中なんでな」
「はあ、ダイエット?…とにかくコレ、受け取って下さい」
後輩は自分の鞄から一つの箱を取り出した。
誰かにプリントを渡すように彼女は顔色変えずに寄越してきた。
どこにども売ってあるチョコ菓子だった。
チョコットカット。
「わーい、センターがんばれって書いてあるー」
「良かったですね。これで来年も」
「受けねぇよ!浪人しないから!」
「え?先輩は来年もこの学校に」
「通わねぇよ!留年もするつもりないから!」
後輩のひどく驚愕している様子に俺は頭にきた。
今さらコレを貰っても嬉しくもない。そして何故本番前に渡さない?
今日こそは後輩から貰えると思ったのがとんだ間違いないだったんだ。
俺は甘いものが欲しくなった。丁度今手に持っているチョコを食べてもいいか後輩に尋ねた。
後輩は呆気なく承諾した。
別に警戒することもないのだが、その時後輩の頬が少し夕日に染まったように見えた。
そして何故かモジモジしだした。
「でもそれ、…食べると死にますよ?」
「何でだよ?!」
「いや、昨日テレビで、『チョコが貰えたら、俺は死んでもいい!』と言っていた人がいたので」
「そうか、だが俺はそいつとは違う」
「じゃあ、先輩は何を貰ったら死んでもいいと思えるんですか?」
俺自身が貰ったら死んでもいいと思えるもの。
それは毎日のように欲しがって、でも早く諦めがつくように目を伏せていたもの。
「俺は……お、おま…」
答えならすでに所持している。
遠い昔からずっと。
お前が欲しい。
浮かんだ言葉を打ち消して違う言葉に変える。
「お前が書いた小説が欲しい」
「それはできないと前にも言ったはずです」
確かに入部するとき読者専門とかなんとか言っていたことを運良く思い出した。
「この話はもう止めよう」
「…そうですね」
後輩が少し俯いているように見えたのは、俺の気のせいではなく確かなことだと思えた。
「ありがとな」
できるだけ感情が伝わるように優しく囁くように短い言葉を残して、俺は図書室をあとにした。
告白した時と逆だなと思った。
あの時、俺は後輩に想いを伝えたら、後輩からキライと返されてすっかり意気消沈してしまっていた。
そんな俺に後輩は本当に小さな声で、ありがとうと言ったのを確かに聞いた。
今回は別に後輩から告白されたわけではないから、あの時と全く逆とは言えないが。
「佐藤も今から帰り?」
「おう、山田か。そうだな、帰るところだ」
どこにでもいそうなこの男は、俺と同じクラスで元文芸部員の山田だ。
「山田もこれから帰るのか?」
「いや、誰かに下駄箱に来るように呼び出されて」
「はあ?何だそりゃあ」
「ほんと早く帰りたいよ」
山田はいつもより顔色が良くない気がしているが。本人に聞いてみるか?
「なあ、山田はチョコ貰ったか?」
「いや、貰ってないけど」
「後輩に貰ったやつがあるんだが」
「食べていいの?」
「いいよ。死ぬけど」
「え、死ぬ…?」
「ははは。そんなの嘘だって、ほら食えよ」
一袋取り出して山田に向けて放り投げる。
それを山田は軽々とキャッチした。
「ありがとう」
「…おう」
二人はしてはいけない食べ歩きをしながら下駄箱まで一緒に歩いた。
数分後、下駄箱には着いたが辺りを見渡しても人は俺たち二人以外いなかった。
仕方なく山田はそのまま待遇することにし、俺は元より帰るつもりだったのでそのまま一人帰った。
その日の晩、俺の携帯が久しぶりに鳴った。
今まで数回しか出たことのない人、俺の想い人、後輩だった。
「もしもし」
まずこちらから話しかける。
「オレだよ、オレオレ。ちっとも詐欺じゃないんだぜー」
「…俺になんか用か?」
後輩は読書のし過ぎで頭が変になってしまったのだろうか?
「あれれ?おかしいですね。今頃、先輩は私のチョコを食べて死んでしまっているはず…」
電話越しに深刻そうな顔が目に浮かんでくるようだ。
ここまで忠告するように(もはや俺に死ねと言わんばかりだったが)しているところを見ると、もしかすると本当に毒でも盛られていたのではないか?と疑い始めた。
「なあ、市販のチョコに毒って盛れるのか?」
「…ん?できますよ?」
「ど、どうやって……?」
「まずお手頃の毒を用意します」
出来ねぇよ。
「その毒を少量の水に溶かして…」
「と溶かして?」
「箱の開け口付近に湿らせます。これでその日のうちに渡せば取り合えず殺せます」
ウソーン(泣)
「そういえば腹が痛くなってきたような」
「先輩…さようなら」
「ちょっ、ちょっと待って?!い、嫌だ!好きな子に殺されたくないいいいい!!」
つい、叫んでしまい恥ずかしくて顔が熱くなる頃にはすでに俺の台詞は余すところなく聞かれてしまっていた。
あはは、オワッタぜ。
布団に一人くるまっている今も携帯は耳に当てたまま通話の切れる音に耳を澄ませていた。
後輩に変なところを見られた!(ゴメン、間違えた。「聞かれた」だった。超恥ずかしい。墓穴があるなら入りたい)
「先輩…」
頼むから何も言わずに切ってくれ。ついでにあの時の告白も忘れてくれー!
「死んでないですよね?」
「あ…?あぁ、ただの腹痛だよ。あはは」
自分がほんと情けなくて、後輩に言われた通り来年も受験した方がいいのかもしれない。
普段より酷い自己嫌悪に陥りかけたその時だった。
俺の顔の上を、流れ落ちる一筋の涙を拭うかのように、後輩は安心したように息を吐いて俺に言うのだ。
「良かったあ」
と。
「先輩、明日渡したいチョコがあるんですけど…来てくれますか?」
「チョコ?もしかして今日余ったやつ?」
「…まあそうです。受け取ってくれますか?」
「別にいいよ。明日も行くつもりだったし」
「ではまた明日、先輩が告白した場所で告白しますから」
「ああ。って、え?!」
通話は切れていた。
さっきとは違う熱が身体中に迸り、ベットの上でのたうち回る。
ハート型のチョコが後輩の手から渡されスキと言われる妄想をするが、実際のところ後輩は俺のことはキライなはずで。って、あれ?頭が混乱してきてしまった。
腹痛もいつの間にか治っており、何故か唐突に甘いものが食べたくなってきた。
「俺も告白しようか、な?」