短編・詩:エスプレッソ
「疲れた……」
ふと、ソファーで横になっていた彼女が本を閉じ、どこを見る訳でもなく天井をぼんやりと見上げながらそう呟いた。いつもの気だるさと、それと少しばかりの甘えが籠められたその言葉に、私は読んでいた小説に栞をはさみ、ゆっくりと腰をあげる。
白い壁に作り付けの小さな棚にはいくつかの調味料が並び、その横には多数のコーヒー豆とお茶が並んでいる。私はその光景に小さく満足すると、まるで喫茶店の店長になったかのような気持ちで、優雅に豆を選ぶ素振りを見せる。最も彼女のご所望の豆はいつも同じ。私は一つだけ明らかに量が減っている瓶を手に取り、蓋を空けてその香りを確認する。いつもの、彼女の好きな香りが部屋にゆるりと漂い、彼女はその香りに満足したのか天井を見上げながら口元を僅かに綻ばせる。
「今日はエスプレッソが飲みたいかな。ドッピオでお願いできる? マスター?」
彼女は相変わらずソファーに寝転がったまま視線だけをこちらに向けて悪戯っぽく呟いた。私は店に通い慣れた馴染みに挨拶するが如く、仰々しく腕を前に礼をする。彼女はそれに満足したのか、再び視線を外してどこを見る訳でもなくぼんやりと天井を眺めている。部屋には音は無く、ただ外から聞こえる電車の音だけが小さく響く。
私は豆をグラインダーに入れ、目の粗さを考える。私はゆっくりとダイアルを回し、グラインダーのスイッチを入れる。小さなモーターの音と共に、徐々に焙煎した香ばしい豆の香りが強くなり、私は小さく瞳を閉じるとその香りを楽しんだ。
私は豆の香りの余韻に浸りながら、ドーサーを動かしながら挽かれた粉をポルタフィルター詰めて入念にタンピングをする。小さな音がリズミカルに部屋に木霊して、外の電車の音がそれに被さる。愛用のla Pavoniのレバー式エスプレッソマシーンは既に準備が終わり、私がそのレバーを引くのを急かすかの如く圧力計の針が踊っていた。準備を終えた私はゆっくりとそのレバーを引き上げる。ゆっくりと沸騰したお湯がフィルターバスケットに充満する感覚が伝わって来る。
するとその瞬間、寝ていた彼女が起き上がり、机の上に肘をついて私の方を眺めている。客に見られているとなればここは腕の見せ所だ。私は圧力を確認するかの様にゆっくりとレバーを押し下げる。ゆっくりと押し下げられるレバーに連動するかの様に注ぎ口からちょろちょろと音を鳴らしながらエスプレッソが下に置かれたデミタスカップを満たしていく。カップから沸き上がる湯気が部屋に小さな模様を描き、奇麗なクレマが見事にカップを彩る。私は満足気にカップをティーソーサーに置き、コーヒーシュガーとお気に入りのティースプーンを彼女の前にそっと置く。彼女は香りを楽しむかの様にその湯気を大きく鼻で吸い込むと、幸せそうに瞳を閉じて天井を見上げていた。私はそんな彼女を横目に役目の終えたポルタフィルターを外してその圧縮された粉をノックボックスに打ち付ける。カンっ、という小気味よい音と共に固まった粉がフィルターバスケットより弾き出されてノックボックスに落ち、湯気と共にコーヒーの鮮やかな香りを部屋に解き放つ。
目の前の客人は多めの砂糖をカップに入れて、スプーンをかき混ぜながらその様子を楽しそうに眺めていた。その様子に満足した私は明日のプレゼンテーションの準備の為に机の上にノートパソコンを開き、つまらない英語を辞書片手に翻訳し始める。私の隣では彼女がコーヒーを飲みながら幸せそうに寛いでいる。
私は会社員、だけど家に帰ればマスターである。
さて、明日の為にも自分にも一杯のコーヒーを淹れようじゃないか。